【南京事件】「虐殺30万人」に疑念 日本軍元少尉の日記が明かす「士気」と「規律」、中国匪賊の「蛮行」at NEWSPLUS
【南京事件】「虐殺30万人」に疑念 日本軍元少尉の日記が明かす「士気」と「規律」、中国匪賊の「蛮行」 - 暇つぶし2ch2:◆CHURa/Os2M@ちゅら猫φ ★
15/05/11 14:29:21.22
>>1より

■南京城…「随分馬鹿げたものを作った」

さらに南京では厳しい戦いを迫られた。戦後に書いたと思われる源次郎さんの手記は、戦闘の激しさを物語る。

《南京南方六里(約24キロ)の秣陵関に到着した。南京城は火災を起こして紅く夜空を染め、砲声も聞こえる。
秣陵関を出発すると、野戦病院が仮設されており、多くの将兵が収容されていた。第三大隊だけで三百名が戦死傷した》

源次郎さんらは南京城の南側にある雨花門から迫る。《西山隊も早く第一線に行け、南京もまもなく落ちるだろう
と言われ、猛進を続け、吾々のいた壕にも敵弾が盛んに飛んでくる。ここからクリークを渡ると、城壁まで
三百米(メートル)、城壁の高さは二十米あり、千二百発の砲弾で城壁を崩し、西山隊も十二日夜城壁を
よじ登って突入した。残敵掃討をするが、城内は火災と銃声で声も聞こえない。夜中になって銃声も止み、民家で休憩する》

手記によれば、源次郎さんらが南京城に入ったのは陥落の前日だ。その後、城壁上での警備を命じられ、
夜を明かす。空が白み始め、眼下に広大な南京城内が姿を現す。

《南京城は周囲十二里、汽車の線路もありその巨大さに驚くとともに、随分馬鹿げたものを作ったものと呆れる》と心情を記している。


■踏み荒らされた家屋に「惜しい」

日記は数日途絶え、16日から再開する。

この日、雨花門周辺の警備を担当していた源次郎さんは、部下を率いて城壁上を移動。
《支那兵の弾薬、迫撃砲弾など夥く、死体も数十ありたり》という状況だった。

午後11時ごろまで任務に就いたが、その間、大隊長から、部隊の団結とともに規律の維持を求められたという。

17日には《午前九時半集合、正午南門を発する予定…(中略)十時には早くも出発》。
次の任務地に向かうため南京城を離れた。

自らも航空自衛隊で空将補を務めた邦夫さんは、自身の経験を踏まえ、17日の記述に着目するのだ。

「師団であれば万単位、連隊でも何千人単位で構成されている。部隊は前夜遅くまで警備を行っていたにもかかわらず、
急な移動命令でもただちに出発できる態勢を確保していた。このように迅速に行動できるのは、高い士気と規律を維持していたからに違いない」

日記や手記だけでなく、源次郎さんは妻にあてた私信の中でも南京城内の様子について触れている。
南京陥落から約1カ月半後の昭和13年1月25日付の手紙にはこうある。

《南京城では千円もするような毛筆を見つけた者や、銀狐や時計、双眼鏡、拳銃、首飾り等々金目の物を
大分見つけた者もあるやうです。残幣を何万円も見つけた者があって、将校はいちいち取り締まらなければならないので、困りました》

当時、南京城内にいた住民らは、欧米人らでつくる国際委員会が設けた非武装中立地帯「安全区」に逃げ込んでいた。
だが、多くは貧しい人々ばかりで、裕福な住民らは早々に南京を脱出している。

日本軍が富裕層の家から高級品を略奪したとする意見があるが、中国軍の仕業との見方もある。

源次郎さんの記述について、邦夫さんは「陥落直後の城内の掃討作戦中に目にした様子だろう」と推測した上で
、「文面からは、部下の略奪を嘆いているのではなく、部下から発見の報告を受け、父はすべてに対応しなければ
ならず困っていたのでしょう。こうした状況からも規律が守られていたことがうかがえる」と語る。

さらに、家の中は中国軍により《書籍や家宝となるやうなものが沢山荒し放題あらされて或いは踏み荒らされ》
といった状況で、《惜しいと思いました》と無念さを記している。 >>3


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