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★【歴史戦 第10部・終わらぬプロパガンダ(5)】中国でも話題になっていなかった「南京」 権力闘争の具に“利用”され
2015.4.22 07:00
1937年にあったとされる「南京事件」の発生から77年目にあたった2014年。
節目の年でもなければ、日本政府要人が「南京事件」を否定するような発言をしたわけでもない。
にもかかわらず中国当局は突然、「南京事件」をアピールし始めた。
この年の3月、国家主席、習近平が訪問先のドイツで「南京大虐殺の死者は30万人」と発言した。
6月には中国政府が南京事件に関する資料を国連教育科学文化機関(ユネスコ)の記憶遺産に
登録申請した。そして12月、国を挙げての国家追悼式典が行われた。
・党内勢力変化 揺れ動く対日政策
「これまで一度もやらなかったことをなぜいまやるのか」
追悼式典を疑問視する中国人も少なくなかった。
独立系シンクタンクに所属する日本問題の研究者は次のように説明する。
「中国当局が歴史問題をアピールし、日本批判を強めるときは、ほとんど国内の政治状況が不安定なときだ。
日本に対する態度は共産党内の『保守派』と『改革派』を見分ける重要な指針だ。
日本批判は両派の主導権争いに使われることが多い」
1972年の日中国交正常化以降、中国当局の対日政策は共産党内の勢力変化に伴って「友好」と「批判」
で揺れ動くとされる。それに合わせて、南京問題を研究する学者らも「メディアに引っ張りだこ」になったり、
冷や飯を食わされたりしている。
2014年は共産党内で権力闘争が激しい一年だった。大物政治家の前中央軍事委員会副主席、徐才厚と、
前政治局常務委員、周永康が相次いで失脚した。国家追悼日の記念式典が行われた約1週間後には前国家主席、
胡錦濤の側近、党中央統一戦線部長の令計画の失脚が発表された。
日本との関係を重視していた胡錦濤と比べて、保守派と軍を支持基盤とする習派は、日本に対する態度が
厳しいといわれる。習派は南京問題をアピールすることで、国民の反日感情をあおり、胡派との権力闘争を
有利に進めようとしている可能性がある。
中国では年々、「南京事件」の犠牲者を追悼する行事の規模が大きくなっている。全国の小中学生に対し
愛国主義教育の一環として、「南京大虐殺」を教えることも義務づけている。
しかし、発生から40年以上もの間、「南京事件」は中国でほとんど話題にならなかった。
・「全国で抗日記念館つくれ」
1980年代半ばまで、江蘇省の小中学生たちは日本の「お盆」にあたる春の清明節に、
国民党との内戦で死亡した共産党員らを祭る「烈士霊園」を訪れていたという。
「南京大虐殺記念館」が建設されるきっかけとなったのは82年に共産党中央が全国各省市に出した
「日本の中国侵略の記念館を建設せよ」との通達だった。最高実力者、トウ(=登におおざと)小平
による指示だという。
表向きには日本国内で満州国に関する記念碑が建てられたことへの対抗措置といわれているが、
上海で建設されていた宝山製鉄所の建設をめぐって生じたトラブルが大きな原因だと指摘されている。
宝山製鉄所は中国の国家プロジェクトとして、新日本製鉄の協力の下、78年に着工した。
このプロジェクトは山崎豊子の長編小説『大地の子』の舞台になるなど日中協力の象徴的存在だった。
トラブルの背景には、共産党内の権力構造の変化があったとされる。共産党の内部事情に詳しい
中国人学者によると、70年代末に当時の最高指導者、華国鋒主導による重工業を中心とした
近代化路線が進められ、新日鉄や三菱重工などの日本企業に対し高額なプラントが多数発注された。
だが、中国の外貨準備不足もあって度々代金の支払いに問題が生じた。
その後、トウが権力中枢に返り咲くと、華の経済路線を「洋躍進」(外国崇拝の盲進主義)と否定し、
農業と軽工業を重視する経済政策に切り替えた。
それに伴い、建設中だった宝山製鉄所プロジェクトの延期を決め、日本企業に対して契約中止を
一方的に通告した。日本企業が中国側に多額な損害賠償を求めていることを知ったトウは
「日本人は経済動物だ」と激怒したという。 >>2へ続く
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