15/04/20 14:22:32.43
>>1より
陛下の悲しみ・苦しみを、側近や記者は能く理解していた。御巡幸は昭和21~29年まで、
真夏や雪降る中、時には手当がつかず列車や学校の教室に泊まられながら続いた。
お立ち寄り先は米国施政下の沖縄を除く全都道府県1400カ所以上、全行程は3万3000キロ。
奉迎者は数千万人に達するが、困窮の実情など一様に具体的だったご下問に「宮中でのご不自由な生活」
を直感し、恐縮する。ここに陛下と国民は悲しみ・苦しみを一層共有するに至る。慰め励まされ、
勇気を頂いた国民は、戦後の奇跡的復興へのエネルギーを蓄え、やがて社会で発揮していく。
実は孤児に接する前、陛下にお迎えの言葉を言上した知事が、嗚咽で言葉を詰まらせていた。
側で見て「不覚をとるまい」と肚を据えた住職も落涙した。そればかりか、ソ連に洗脳された
シベリア抑留帰りの過激な共産主義者の一団まで声をあげて泣いた。彼らは害意をもって参列していた。
皆、陛下のご心中を察しつつ、その温かみに感極まったのだ。自らの戦中・戦後も重ね合ったに
違いない。諸外国にも権威や権力は数多存在するが、かくも濃厚な空間の内側で国民と
つながっている国体は、ほぼ皆無であろう。
・自然な「天皇陛下万歳!」
ところで、因通寺慰問を終えられた先帝陛下が御料車に乗り込まれる際、孤児たちは陛下の
洋服の端をしっかりと握り「又来て…」とニッコリ。陛下は「今度はお母さんと一緒に来るよ」
と応じられた。この逸話に「陛下は完全復興後も中々、スーツの新調をお許しにならない」との、
先帝陛下のお側近くに仕えていた人物の証言が蘇った。最も長くお召しになったスーツは確か
「28年間」と聴いたが、あまりに長期間で記憶に自信が持てなくなっている。
だが、民の竈より煙が立ち上らぬ様子に、貧しくて炊くものがない…と痛みを感じ、
税を免じ、荒れ果てた宮殿の修理もお許しにならなかった仁徳天皇も、衣の新調を躊躇われた。
「28年間」は記憶の通りだろう。
仁徳天皇と先帝陛下の御心が重なるが、今上陛下も先帝陛下の歩まれた道のりをたどられている。
東日本大震災(2011年)後、天皇・皇后両陛下は福島県を度々行幸啓なさった。全国御巡幸で、
先帝陛下も福島県の常磐炭鉱を行幸。地下深き灼熱の坑内をスーツ姿で回り、半裸の男たちを激励された。
「天皇陛下万歳!」は、ここでも極極自然に起こった。
皇統を取り去ったら、日本に何が残るのか…。(政治部専門委員 野口裕之/SANKEI EXPRESS)
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3:名無しさん@13周年
15/04/20 16:26:29.80 jm8fgPCd5
なお鬼女↓
4:名無しさん@13周年
15/04/20 17:25:21.87 8kiKdG4mK
いたいけな幼女であることよ
涙が止まらないわ