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そしてそれは「お国のために」とか「八紘一宇」という錦の御旗の元に、
侵略戦争を是とした戦中日本人の態度そのものである。
他にも、環境改善の効果が科学的に認められないまま「環境改善のために」と
多くの河川に放り投げられている「EM団子」なども、こうした「いい話」に対する耐性の低さを
表す事例だろう。あと、教師の労働時間を泥棒しながら続けられる部活動もそうか。例を挙げればキリがない。
本来、世の中に「絶対的にいいことばかりの行為」というのは、極めて少ないはずだ。
多くの善良な行為は、一方で何らかの問題点を抱えていることが大半である。
例えばボランティアにしても、一時的な扶助であれば問題はないが、これが継続的に必要と決まった時に、
本来であれば賃労働に切り替えて専従させることにより、
スキルなどを蓄えて、また後継者を育てていくべき必要があるはずなのだ。
にも関わらず、「これまでボランティアで済んだのだから、これからもボランティアでいいだろう」として、
結局はボランティアを口実とした、単なる労働力の搾取になってしまっているようなことはたくさん存在している。
それは決してボランティアをさせる側だけの論理ではなく、ボランティアとして働く側ですら
「自分たちが納得しているのだからいいじゃないか」という論理で、これを肯定してしまう。
こうして仕事は無償労働にすげ替えられ、多くの同様の仕事がボランティアベース、
もしくは低賃金労働であることを前提に用意されてしまう。
今の日本には多くの「いい話という旗印」が蔓延している。
お国のために、社会のために、学校のために、子供たちのために、地域のために。
その一方で「それが本当に、そのためになっているのか?」という検証については、
多くの人が口を閉ざしている。または「空気を読め」「余計な指摘をするな」と、
まるで批判をしている人が、そのためになることを考えずに、わがままを言っているかのような反発を受けてしまう。
これはやはり、日本人の多くは「善意」と「より良いこと」の区別がついていないということなのだろう。
「善意は必ず良いことである」という前提を無批判なまま受け入れ、善意を権威に仕立てあげる。
そして権威は当然自らの功績を「正しいこと」として喧伝する。
この喧伝は、決して誰かが意図的に行うのではない。ただ「善意で行ったのだから、
その結果は