15/03/27 15:41:19.73
>>1より
この証言には重要なポイントがある。陥落後間もない城内では、すでに住民による露店が立っていたという点だ。
南京攻略戦で城内に残った住民らは一時、非武装中立地帯の「安全区」に逃げ込んだが、
日がたつにつれ安全区から出てきて平穏さを取り戻している。原田さんの目にはそう映った。
中国が喧伝する「南京大虐殺30万人説」が事実ならば、当時は城内で日本軍による住民への
虐殺や暴行、強姦が繰り広げられていたはず。そんな阿鼻叫喚の現場で、和やかに敵兵相手に
商売をすることがあり得るだろうか。
平成19年12月、東京で開かれた「南京陥落70年国民の集い 参戦勇士の語る
『南京事件』の真実」でも、8人の元将兵が同様の証言をしている。
「敵兵は1人もおらず、城内はガランとして人影がなかった。100メートルほど行くと、
1人の老婆が紙で作った手製の日の丸でわれわれを歓迎してくれた」(12年12月14日に入城し、
すぐに城外で宿営した元陸軍第6師団歩兵第13連隊の伍長、古沢智氏)
「入城して2~3日後、住民の姿をみかけるようになり、時計の修理のため時計屋を訪れた」
「3回ほどサイドカーで城内をくまなく見て回ったが、遺体や虐殺の痕跡は目にしなかった」
(12月16日に入城した元陸軍第16師団の獣医少尉、稲垣清氏)
「12月14日ごろには(城内に)散髪屋や立ち食いそば屋など、早くも住民が商売を始めていた」
(安全区で掃討・警備を担当した元陸軍第9師団歩兵第7連隊の伍長、喜多留治氏)
・日本兵を悩ませた「便衣兵」
平穏を取り戻した城内でも、日本兵にとって掃討すべき〝脅威〟があった。
民間人に偽装し、隠れ戦闘員として日本兵らを襲った中国の「便衣兵」だ。
3等航空兵曹の原田さんは、便衣兵を処刑する場面を見たことがあった。
休暇で南京城の北を流れる長江(揚子江)の河畔に行ったとき、日本陸軍の兵士らがトラックに
乗せてきた中国人の男10人ほどを銃剣で突いたりした。川の中に逃げ込んで撃たれたり、
泣きながら命ごいしたりする男もいた。
原田さんは言う。「虐殺と言われれば虐殺かもしれない。でも便衣兵はゲリラだ。
日本兵がやられる可能性もあった」
当時、日本軍は南京だけでなく、各地で便衣兵に悩まされた。堺市在住の元海寿祐さん(51)は、
日中戦争で出征した父、寿一さん=平成2年に72歳で死去=から便衣兵に出くわした体験談を聞いたことがある。
寿一さんが出征先で仲間と歩いていて、怪しい中国人の男を呼び止めた。男は便衣兵だった。
走りながら腋の下から銃口を向け、仲間が撃たれて負傷した-。
元海さんは「父は戦場の現実は悲惨なものだと言っていた」と振り返り、南京事件についてこう話した。
「『大虐殺』で言われるようなことをやればすぐ情報が広まる。(将兵は)処分されるはず、と大虐殺説を否定していた」
・「ギャクサツヲ禁ズ」
「南京大虐殺30万人説」で言及される日本軍の残虐性。しかし、軍には厳しい規律があったという数々の証言もある。
「十月五日 大隊長注意 リャクダツ、ザンサツ禁ズ」
昭和12年に日中戦争に参加した元陸軍第5師団歩兵第21連隊の下垣定信さん=平成8年に
83歳で死去=が所持していた手帳には、上官からの命令が日付とともに記されている。
「上官も厳しかったし、軍紀も厳しかった。自分勝手は許されなかった」。
生前、下垣さんは長男(75)にこう話したという。南京攻略戦には参加していないが、
日中戦争勃発(ぼっぱつ)直後に出征した際の体験談だ。 >>3へ