【天皇の島パラオから 戦後70年】島民に投降勧めた日本兵 「死ぬのは日本兵だけで十分。島民を道連れにすることはできない」at NEWSPLUS
【天皇の島パラオから 戦後70年】島民に投降勧めた日本兵 「死ぬのは日本兵だけで十分。島民を道連れにすることはできない」 - 暇つぶし2ch1:◆CHURa/Os2M@ちゅら猫φ ★
15/01/04 19:26:21.60
★【天皇の島から 戦後70年・序章(3)前半】島民に投降勧めた日本兵 「道連れにできない」
2015.1.4 12:00

昭和19年9月15日、米軍がパラオ・ペリリュー島に上陸を試み、多くの死傷者を出したオレンジビーチ。
真っ赤な夕日に包まれた浜辺を歩くと、70年前に米軍の艦船が大挙して島を取り囲み、
倒れた日米両軍の兵士が幾重にも重なり合う光景が目に浮かぶ。

そのオレンジビーチの南側海上に平らな島が浮かんでいる。アンガウル島だ。ペリリューから南へ約11キロ。
南北4キロ、東西3キロ、面積8平方キロと、ペリリューの半分以下しかない小さな島だ。
かつては燐鉱石の採掘で知られたが、今も残る採掘跡は鬱蒼(うっそう)としたジャングルに呑み込まれてしまっていた。

島の西側にあるアラブルックル・タオ(アンガウル港)の波止場の入り口には、日本軍が取り付け、
破損した鉄製のバリケードが残されている。採掘した燐鉱石を船まで運ぶトロッコ用のレールが海に向かって延びている。
傍のアンガウル州事務所前には「本巣市消防団」と書かれた消防車が1台駐車しているが、壊れていて動きそうにない。

18年6月時点で、日本人1325人、島民も754人住んでいたが、ガイドのトリーシャさんによると、
現在の人口は約170人になった。

トリーシャさんが準備してくれた軽トラックの荷台に乗り、出発する。1分もすると、ジャングルだ。
木々にツタなどが絡み合い、まるで緑の洋服で着飾っているようにも見える。

ようやく1台が通れるだけの細い道を進む。アンガウル神社や宇都宮部隊59連隊の慰霊碑、
米軍が上陸した北東部のレッドビーチと東部のブルービーチ、2100メートルの滑走路…。
島は3、4時間で一周できるが、島全体が密林に覆われ、人の気配がない。

◇    ◇

米軍の第81師団がアンガウル島に上陸したのは44年(昭和19年)9月17日。東北港と東港に上陸した。

米軍の約2万1100人に対し、日本軍は1200人にすぎなかった。

アンガウル島には当時、日本人が2600人、島民は750人ほど住んでいたが、日本人と島民の老人と
婦女子はパラオ本島に移され、健康な男子島民186人が、弾薬や食料などの運搬を手伝うため、軍夫として残っていた。

米軍の波状攻撃に守備部隊は上陸2日目に、半数を失う。最終的に日本軍は約50人が生還したが、
約1150人が戦死。米軍も260人が戦死し、1354人が戦傷した。

米軍は9月24日以降、投降を呼びかけたが、日本軍将兵は応じず、鍾乳洞に避難していた島民約186人は投降した。
日本軍や日本人が「島民を道連れにはできない」と投降を勧めたのだという。(編集委員 宮本雅史) >>2へ続く

URLリンク(www.sankei.com)

関連スレ
【天皇の島パラオから 戦後70年】陛下、靖国、富士、桜… 「日本人になりたかった」
スレリンク(newsplus板)

2:◆CHURa/Os2M@ちゅら猫φ ★
15/01/04 19:26:30.02
>>1より
【天皇の島から 戦後70年・序章(3)後半】「死ぬのは日本兵だけで十分」
2015.1.4 14:00

日本政府がパラオ諸島の経済活性化を精力的に進めたのは、アンガウル島も例外ではなかった。

アンガウル港には燐鉱石の積み込み桟橋や灯台を設置したほか、東北港や東港にも桟橋を造り、
船の往来があった。港地域は、サイパン村とも称され、燐鉱石工場や交番、郵便局、アンガウル医院、
国民学校、公学校などが集中したという。

ヨリコ・ルイスさん(89)は昨年5月、アンガウルからコロール島に移り住んだ。アンガウルの飛行場と
波止場に近い集落には、「ヤマダ商店」「マルサン商店」、沖縄人が経営する「ナカヤマ商店」があり、
イワシなど日本の食材を売っていたという。

「大きい病院もあり、内科と外科と産婦人科があった。お医者さんは『カタギリ先生』といった」。
ヨリコさんは、公学校で1年から3年まで日本語を学び、コロールの補習科で2年間勉強した。同級生は90人いた。
日本人の「フギ」「ヨシノ」という男性の先生が2人いた。ヨリコさんは70数年前を懐かしむように話す。記憶は鮮明だ。

「公学校では、日本語の読み方、書き方、算術、理科、地理を学んだ。コロールの補習科では、イズチ校長、
ヨシノ先生、フクオカ先生、ハットリ先生に教えてもらった。卒業後は、燐鉱石会社で電話交換手の仕事をしていたら、
戦争が始まった」

島にいた日本人の名前がドンドン出てくる。

◇    ◇

日本軍がアンガウルやペリリューなどパラオ諸島に軍事基地を建設、駐留するようになったのは、
1933年(昭和8年)に国際連盟を脱退して、36年(同11年)に軍備制限条約を破棄してからのことだ。

ヨリコさんによると、アンガウルの守備部隊は島民の家を借りて住んでいたといい、「シバザキ大尉やヤマグチ軍曹は
うちの近くに住んでいた。日本の兵隊さんは優しくて、一緒に歌を歌ったこともある。タピオカを作って慰問に行ったことを覚えている」。

戦争中は島北部の鍾乳洞に隠れていた。「100人以上のアンガウル人がいた。米軍は『出てきなさい』と
盛んにアナウンスをしていた。ある日本人が『逃げなさい』と勧めてくれたので、10月8日午前10時頃、出て行った」

アンガウルでの戦闘でも島民に死傷者は出たという記録はない。ペリリューのように島民全員に対する組織的な
疎開措置は取られなかったが、守備部隊は玉砕を前に、島民に投降を勧めたといわれる。
「死ぬのは日本兵だけで十分。島民を道連れにすることはできない」と、投降させた将兵もいたといわれる。

「アンガウルは戦争に巻き込まれた。でも、日本兵に対して悪い印象はない。委任統治時代を通して島が栄え、
日本語も覚えた。戦争では、兵隊さんたちは玉砕したが、島民には投降を勧め、守ってくれた」

戦後、崩壊物処理を終えた日本軍がパラオ地区を引き揚げる際、多くのパラオ人が、日本の統治に感謝し、涙で見送ったという。

URLリンク(www.sankei.com)
アンガウル島のアンガウル神社。道路から一歩入ったジャングルのなかにひっそりと佇んでいた。
昭和58年に、先の戦争で命を落とした人たちの鎮魂のために建立されたという=パラオ共和国・アンガウル島(松本健吾撮影)
URLリンク(www.sankei.com)

3:名無しさん@13周年
15/01/04 20:52:24.22 ntsyXzg1e
あほか。天皇を守るために日本兵はしなないわw

日本人は日本国を守るが天皇の私兵ではない

4:名無しさん@13周年
15/01/04 20:54:50.57 ntsyXzg1e
明治維新で維新の志士たちが「天皇」を{玉}と呼んでコントロールしていた事実を知らないのかw
日本の天皇はほとんどが日本人や日本の氏族にコントロールされていたのが日本の歴史だ

5:名無しさん@13周年
15/01/04 23:33:02.60 dzMrL3Oxo
パラオに足を運んで自分で確かめる必要があるかも。

6:名無しさん@13周年
15/01/05 02:01:52.28 wycZRMRh0
入植した日本人から農業を教えてもらったパラオ人もいたね。無料で

7:名無しさん@13周年
15/01/05 05:06:21.26 RJNpm2Iix
チョンの火病スレはここですか

8:名無しさん@13周年
15/01/05 05:31:07.14 AOR1SN7DF
>>7 関係ないスレで何故売名するの?いい加減反日してる国なんて記憶から消して未来を直視しろよ

9:名無しさん@13周年
15/01/05 09:05:25.61 ma9PX97FQ
ちゃんと人としての交流があったんだな

10:名無しさん@13周年
15/01/05 18:38:45.26 elnTj34tG
>>3
>>4
2chに帰れ

11:名無しさん@13周年
15/01/06 06:18:43.00 fYwE7gEgt
知らない事が多い
パラオの親日が?だったがパズルがはまっていく

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