14/09/20 21:43:55.75 QjQ98zJ+0.net
ちなみに倭国の位置があやふやというより、倭人があちこちに移動したり広がっているため。
1)蓋国の南の倭人
周代の蓋国とは殷(商)代の商蓋(あるいは商奄)のこと。
ここは通交の要害で殷王家の直轄地だったが殷が周に滅ぼされたので蓋国になった。
その南にあったのは「人方」で、山東半島南岸部に位置し殷代は殷の方国として、
タカラガイを海の向こう(沖縄、奄美大島~台湾付近まで。ベトナム付近はずっとあと)で採取し、
殷の貨幣である貝貨の生産を一手に担っていた、器用で手先の細かいことの得意な工芸海洋民族国。
人方は殷の方国でありながら、殷以上に豊かになる一方殷は岩塩や青銅(銅)の採掘もままならなくなり没落していった。
殷末になるととうとう、殷は人方に攻め入り実効支配してしまった。
ところが人方王家はそれからも殷と戦い続けており、(陸上民族の殷軍の届かない)海外に拠点を置いていたらしい
(恐らくそれは虎の子の「タカラガイの収集処理地」そのもの)
殷は東に人方を攻め、その背後の西から周の武王の連合軍に攻められて、殷は滅亡した。
殷が滅亡したので人方は殷の方国ではなくなり、人方の名は消え、代わりにその地域に登場したのは倭人(国)。
倭人は武王の幼い息子「成王」が王位に着くと、ちょう草(霊芝、サルノコシカケのことらしい)という不老長寿の薬草を周王に贈った。