14/08/21 15:20:05.15
>>1より
収容所生活で精神が荒廃していく捕虜も少なくないなか、秋草さんは自分を律して生きようとした。
戦場と同じく収容所でもその屈強で崇高な精神は変わらなかった。
そして日本への帰国が叶う。シアトルを経由し、横須賀へ。秋草さんが故郷・足利へ戻った日。
地元の小学校では合同の葬式が営まれていた。秋草さんが行って見ると、そこには自分の遺影が飾られていたという…。
◆米軍からの称賛と誇り
2008年、秋草さんは63年ぶりに硫黄島の土を踏みしめた。「戦史の記録の中から今もあなたが生きていることを知った。
硫黄島へご招待したい」と、当時の在日米陸軍、フランシス・ワーシンスキー司令官から申し出があったのだ。
米軍にとっても、死力を尽くした硫黄島の戦いは、今も決して忘れ去ることのできない誇りを賭けた戦闘なのだ。
米輸送機で硫黄島の滑走路に降り立った秋草さんは、「この下には今も無数の兵士の骨が眠っているのだ…」と感慨にふけったという。
そして、沸き上がる思いを抑えることができなかった。
「戦死した者たちはいったい何を担保に戦っていたのだろうか。それは間違いなく、平和のためだ。
数多くのこの人柱の犠牲の上に、やっと平和が訪れたのだ。
命の大切さ、平和の尊さを後世へ伝えるため、そのために、今も私は生かされているのだ」 (了)