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★「落選」比例下位に反発、一部自民が離反か 北海道 公明敗退の内幕
佐々木洋輔2024年10月31日 8時01分
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衆院北海道10区で公明候補が敗れた。2012年自公連立政権の復活以降、
5期連続で公明が野党を破り、道内で唯一、小選挙区での公明議席を維持してきた10区。
毎回のように、時の首相ら重鎮が応援に駆けつける自公選挙協力の象徴区だった。
しかし、今回はその関係にほころびが生じていた。
原因は10区を地盤とする有力な自民候補の比例順位だった。
「まあ仕方ない。党の決定に従うまでだ」
公示日前日の10月14日午後8時、自民の比例道ブロック単独候補だった渡辺孝一氏(66)は、
事務所で夕方から党本部の連絡を待っていた。そして、届いた一枚の紙を見て、冒頭の言葉を絞り出した。
手元にあったのは自民比例名簿。
比例単独で当選4回を重ね、現職の総務副大臣でもある渡辺氏の名簿順は12位だった。
12位は事実上の落選が決まったことを意味する。党本部からの電話はなく、名簿が書かれたファクス1枚だけ。
「寂しい思いはあるよ」。そうつぶやきながら、渡辺氏は「あしたの第一声、行かない方がいいかな。
おれがいたら水差すようで空気が悪くなる。公明党に確認してくれるか」と、秘書を呼んだ。
渡辺氏が気遣ったのは、公明候補の稲津久氏(66)だ。
公示日の第一声で、渡辺氏は稲津氏の応援演説をすることになっていた。
自公選挙協力を有権者に示す儀式のようなものだ。
渡辺氏は第一声に姿を見せた。
しかし、その場にいた岩見沢市幹部は聴衆を見て、「いつもより自民の農業関係者、少ないなあ」と、感じていた。
その直感が12日後、的中することになる。
その前に、10区の構図をおさらいしたい。自公の協力関係は12年にさかのぼる。
●2012年の石破裁定からしこり
当時、10区内の中核市である岩見沢市長だった渡辺氏は、自民候補として衆院選での立候補をめざしていた。
市長を辞職し、準備を進めていたが、そこに公明の稲津氏が名乗りを上げてきた。
10区内の芦別市出身で、道議をへて当時、比例単独の衆院議員だった稲津氏。
公明として道内で唯一となる小選挙区議席を狙っていた。目をつけたのが自民議員が不在の10区だった。
この年、自公連立政権の復活をめざしており、渡辺氏と稲津氏の候補者調整は避けられないものだった。
「自民の公認を得られなければ無所属で戦うまでだ」と公言した渡辺氏だったが、
当時の石破茂幹事長自らが「最大限の努力をする」と、裁定に入った。
結局、渡辺氏は、比例単独候補として当選確実な順位に記載される「優遇」へ。
10区候補の座は稲津氏に譲った。
渡辺氏は比例当選し、岸田派に所属。「優遇」は党の決まりでは原則2回だが、
例外として続き、前回は岸田文雄首相(当時)のもと、4回目の「優遇」を得た。
その半面、道内の他の自民候補からは、「渡辺氏の優遇で比例重複の復活当選枠が減る」との不満が渦巻いていた。
そして、今回。岸田氏の退陣とともに、渡辺氏の比例優遇も終わった。
くしくも終わらせたのは、最初に裁定した石破氏だった。
2024年10月27日、投開票日を迎えた。
●「席が空いたら自民候補立てられる」
「巨大与党をようやく打ち破った。みなさんの変えたいという思いで、ヤマが動いた」
立憲の神谷裕氏(56)は、涙をこらえながら勝利を宣言していた。稲津氏との一騎打ちは3度目。
過去2回は惜敗し、比例で復活当選。今回は2372票差で小選挙区で初勝利を決めた。
確かに、神谷氏には自民の政治とカネの問題や、他の野党候補の不出馬という追い風はあった。
しかし、それ以上の勝因に、事務所幹部の一人は、渡辺氏の比例12位を挙げた。
「あれで自民支持者の士気が下がった。どうせ渡辺さんは落選だからって。支援の動きが鈍った」(続く)
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