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★失敗の気配濃厚な大阪・関西万博…その「原点」にいた男・堺屋太一が語っていた「70年万博への執着」
松本 創 ノンフィクション・ライター
2025年大阪・関西万博は、橋下徹・大阪市長と松井一郎・大阪府知事、それに橋下氏を政界入りさせ、
後見人的存在だった堺屋太一・大阪府市特別顧問(2019年2月死去。肩書はいずれも当時)の3人が
大阪・北浜の寿司屋で交わした会話から始まっている。2020年東京オリンピックの開催が決まった2013年のこと。
「東京が二度目の五輪なら大阪は二度目の万博だ」「大阪の成長のために世界的イベントが必要だ」と
熱弁を振るう堺屋の提案を橋下・松井が受け入れ、翌年に誘致を表明したという話を両氏とも著書に記している。
堺屋は旧通産省の若手官僚だった当時に1970年大阪万博を担当し、その経験を生涯語り続けた。
彼は70年万博をどう総括し、大阪で二度目の万博に何を託そうとしたのか。
14年前の取材に語っていた言葉を『大阪・関西万博「失敗」の本質』(ちくま新書)から見てみよう。
●「万博に取りつかれた男」との空疎な質疑
実はこうした疑問を堺屋に直接ぶつけたことがある。
2010年3月13日、大阪万博40周年の記念式典が行われた万博記念公園でのことだ。
式典挨拶で堺屋は「25歳からずっと万国博覧会に取りつかれた人生」だと自己紹介し、
「1970年の大阪万博、90年の花博、できればもう一度、この大阪で博覧会が開かれてほしい。
最近の日本は元気がなく、冒険的なことをしなくなっているから」と述べた。
そして、かつてのパビリオン「鉄鋼館」を改修した「EXPO‘70パビリオン」を内覧した後、
私を含む報道陣の取材に応じた。
当時の録音から、私自身が行った質疑をいくつか抜き出してみる。
─40年経って、大阪万博は何を残せたと思っておられますか。
「大阪万博で活躍した人たちが20世紀の間、日本の文化をすべてリードしましたね。
建築でもファッションでも光の芸術でも、日本のトップを占めた人は全員、万博出身。
私がお願いした時、磯崎新さんも、黒川紀章さんも、コシノジュンコさんも、石井幹子さんも、全員30代です。
今、30代の人にこんな大きな行事を任せることは絶対ないですよね。当時はそれを大胆にやったし、できた」
─当時は高度成長期ですが、今は成熟社会と言われる中で40年前の考え方や手法が通用すると思われますか
「はい、はっきり通用すると思います。ただ、それに命を懸ける若者がいなくなっただけです。
今、私は上海万国博覧会をやっていますが、1984年から26年かけてこれを実現させました。
そういう気迫を日本の若い人がこれから持ってほしいと思います。特にこの関西の人には。
今は衰退してますけども、かつて大阪の人たちがこれだけのものをね、
世界を驚かせるものを作ったということを思い出して頑張ってほしいですね」
これには少し説明が必要だろう。
先述した堺屋の著書によれば、84年に初めて中国を訪問した際、副首相や上海市長に万博開催を提案したという。
89年の天安門事件の影響で一度は頓挫したが、26年越しに実現し、堺屋は「最初の提案者」として外国人特別顧問に任命された。
一方で、日本企業が合同出展した「日本産業館」の代表も務めた。
上海万博は、この会見の1カ月半後に開幕。それまでの最高記録だった大阪万博の入場者数6422万人を上回り、7300万人を記録した。
(続く)
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