野々村元県議の今後を考える11at MAYOR
野々村元県議の今後を考える11 - 暇つぶし2ch250:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/18 14:14:59.03 XFj4CRhS0.net
渤海国は栗末靺鞨が作った国。
高句麗と渤海国(日本からのリップサービス高麗王)は別の国

オホーツク文化とは,、6•7世紀頃〜9・10世紀頃まで道北・道東のオホーツク海沿岸地方で展開した北方色の濃い文化で、
海洋漁撈、海獣狩猟、犬・豚の飼育などを特色とする。
遺跡からの出土遺物には、沿海州方面のいわゆる靺鞨・女真文化のものとまったく共通するものが数多くみられる

この時期日本は渤海国と友好的な交易 渤海国926年に契丹の攻撃を受けて滅亡。
北海道の鎌倉時代に日本文化に吸収され消滅

アイヌとは時代も文化内容も無関係です

日本は渤海の朝貢を歓迎したが、宗主国に相応しい威儀を整えそれなりの褒美も用意せねばならない 関係で、
財政がかなり圧迫されたといわれている。貿易色が途中から濃くなった

251:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/18 15:35:56.66 XFj4CRhS0.net
扶余と高句麗は墓制が違うなど、色々指摘されてはいるが、 広い意味で高句麗は扶余系

高句麗が新羅対策の必要などの事情で倭に対し通好を求めてきたとき、
倭(日本)は高句麗に対し臣下の礼を要求している。

渤海国は高句麗の貴族を擁すると称し、高句麗の再興であると誇ったのだ
渤海の王家「大氏」については、靺鞨族出身という説が通説
渤海国の支配下にある一般人は靺鞨族が多数をしめていた。
こうした事情などから、渤海の実態が高句麗なのか靺鞨なのか疑問を投げかける説もあり、 昔から議論がなされている。
日本は渤海をあくまで高句麗の再興として扱った

半島のサイトとなると渤海の武藝王の国書の都合のよい所だけ切りとって渤海が本家だと 力説しているブログ類が複数ある。
渤海第2代国王・大武藝が日本の聖武天皇 にあてた国書がある。
「渤海の国書がウソなのか。『日本書紀』がウソなのか。」 と書かれていたが、ウソなのは国書に対する鹿島氏の解釈だったのである。
本枝百世は、日本の繁栄に対する賛辞に過ぎないので、そもそも この国書では渤海王と日本との縁戚関係の有無については一切触れられていないと見るのが正しい。
つまり渤海が本家という意味などではなく、日本が始祖から百世までも伸びるという意味
はっきりしているのは、日本が渤海よりずっと格式が高いということなのである。

来日した使者の中には、人相を見るのが上手な達人もいたことが日本の記録にもある

源氏物語 光源氏の未来を『予言』したのは来日中の渤海使
「国の親となって、帝王の最高の地位にまで登られるはずの人相をお持ちの方ですが
乱れ憂えるようなことが起こるかもしれません

光る君という名前は、高句麗{渤海国}の人相見の人がお褒め申して お付けしたものだ

252:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/18 16:16:33.77 XFj4CRhS0.net
ソ連軍は瀋陽を半年占領した後、972の工場を略奪し、瀋陽の上下水道、排水、暖房システムまで破壊した。 アメリカの航空整備士ロバート・シグは、
ソ連が瀋陽から撤退してから半年後にここに到着し、荒廃した瀋陽の都市を見て、
「ロシア人が都市を占領し、ソ連赤軍は中国人に戦車を頭に乗せたソ連殉教者の記念碑だけを残した」と回想した。
統計によると、1946年にソ連が東北地方で略奪した戦利品の損失総額は53億4000万円で、当時の13億6000万ドルに相当する。
ホワイトゴールド32,401.55グラム、シルバー1,866,549.69グラム、ダイヤモンド741.0662グラムを割引なしで除きます。 1946年、国民政府は抗日戦争中の財産損失が133億ドルであると発表した。 ソ連が東北から略奪した物資は、抗日戦争8年間に中国で失われた財産の10分の1に相当する。

253:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/18 16:38:31.11 XFj4CRhS0.net
国際慣習によれば、戦勝国は捕虜の労働力を使用する権利を有します。 南京に到着すると、日本人捕虜が汗を流して道路を建設しているのを見て、
江湾に新しく建設された空港はまだ修理されておらず、日本人捕虜はそれを建設し続けました。
ある日、彼らが道路を作っているのを見に行ったが、帝国軍が苦力に変わったのも一生に一度の光景だった。
当時は機械設備が不足しており、道路建設は依然としてシャベルとつるはしに依存しており、塹壕バンカーをたくさん掘って非常に上手に運用した
休んで歩き回ったり、勝手にタバコを吸ったり飲んだりする人は見られませんでした。
連合国は、日本軍捕虜は相手の階級に関係なく戦勝国の兵士に敬礼し、相手は敬礼を返さなくてもよいと規定した
彼が私に敬礼したとき、私は本当に夢の中にいるような気分になりました
大日本帝国陸軍の将校たちは素早い動きと正しい姿勢で連合軍の規定に決して違反しなかった
毎日何回受けた敬礼を数え、瀋陽に到着した後、私は彼が70回まで数えるのを聞きました。
上海の慈善団体がこれらの日本人捕虜に靴と靴下を寄付したいと思っていると聞きましたが、彼らはそれを望んでいませんでした

整然と船に乗って帰還し、誰も良い席をつかまず、女性と子供を優先したという。 持ち物は預けなければならず、持ち込むことはごくわずかなお金と、
現金500円、時計、タップペンなど、私物もほとんどありませんでした。
憲兵隊が厳しくチェックし、規則に違反した人は誰もいなかったという

老人は前かがみになり、次に女性が子供たちを抱き、最後に若い男性がいました。 列は非常に長く、音はなく、写真には静寂があり、堤防に打ち寄せる波だけが聞こえ、
子供たちでさえ歩いたり、ジャンプしたり、泣いたり、叫んだりしませんでした

254:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/18 16:54:43.23 XFj4CRhS0.net
彼らの妻や娘たちは別の役割を担っていました。当時、国民党政府は船舶の数が限られており、中国東北部出身者の送還は最優先事項ではありませんでした。
瀋陽に到着すると、数多くの屋台が日本人住民で立ち並び、生活に困る品物を売っていました。
ピアノやソファといった大型のものから、人形や花瓶といった小物まで、実に様々でした。財産は没収されましたが、当局はこれを禁止しませんでした。

「小物」を売る屋台は最も興味深く、日本の文化品で溢れていました。屋台の後ろには、ほぼ必ず女性がひざまずいていました。男の子はおらず、母親や姉妹だけが「男」たちに顔を見せていました。
彼女は頭を下げ、目を伏せ、自分の商品にあまり関心を示しませんでした。客が商品を持ち帰り、表示価格を支払うのを許していました。誰かがただで何かを盗んでも、彼女は何も反応しませんでした。
時折、男(主に内陸部の中国兵)が手を伸ばして彼女の顔に触れ、無理やり持ち上げさせようとした。彼女の反応は「三度ノー」だった。協力も抵抗もせず、声も出さなかった。

255:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/18 17:29:31.14 XFj4CRhS0.net
1930年代の延安は、当時の中国国内の戦火から離れた場所にあった。中国西北部の僻地にあった
一般に毛沢東は1935年の遵義会議で主導権を握ったかのように言われてきたが、実情は必ずしもそうではなかった
1942年整風運動
すぐに互いの告発合戦となり、多くの罪のない人々を死に追いやることとなった

延安には約4万人の熱血青年が集中しており、そのほとんどが10代から20代で、中国共産党の地下党によってこの「革命の聖地」に紹介されました。
延安に到着したとき、彼らは皆興奮していました。 ある若者は、「ようやく延安市の首長に会い、興奮して涙を流しそうになり、車の中で延安市を応援し、
この厳粛な古都を讃えました...」と回想した。しかしすぐに、彼らは多かれ少なかれ失望しました。

最も残念なのは「平等」の問題です。 彼らの理想のこの核心は、革命の聖地ではどこにも見られず、不平等と特権が蔓延しています。

司馬陸は病院でこんな光景を目撃した。「私たちは病気でもないのに、なぜここに送られたんだ?」
江西省出身の二人が怒鳴り声を上げ、政治教官の腕から逃れようとした。教官は「同志、静かにしろ」と言い、
武装した同志数名を呼び寄せて二人を制止させた。…二人の江西省出身者は続けた。
「両親や子供たちに会いに故郷に帰りたいのですが、休暇の申請は何度も却下されました。精神を病んでいると言い張って、ここに送られたのです。」
若い志願兵にとって、逃亡はさらに困難だった。捕まれば処刑される危険があったからだ。ほとんどの志願兵は逃亡を諦め、留まった。
彼らが中国共産党のために戦うことを確実にするため、毛沢東は彼らを根本的に改革し、再編成する必要があった。
「延安整風運動」として知られるこの計画は、1942年初頭に始まった。
まず毛沢東は、彼らの指導者である35歳の共産党員、小説家王実味(おうじつみを標的とした。

256:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/18 17:43:55.39 XFj4CRhS0.net
ホロコーストの実施は主に第二次世界大戦中に発生し、虐殺は単一の人種を標的にしました。
共産主義全体主義の階級虐殺は主に平時に起こり、虐殺は暴君本人を除くすべての人を対象とした
より長く続き、虐殺はより広範囲に及び、その方法はより残忍でした

257:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/18 20:15:53.69 XFj4CRhS0.net
北条政子や日野富子は夫婦別姓でしたけど? とか未だデマが流れているが、
①北条政子とか日野富子という名前は「第二子世界大戦後」につくられたの!
②当時は「お万寿」だし「藤原富子」という。
実は、韓国や中国には「苗字」という概念が無い。
金とか朴とかあるが、あれはカバネといい苗字ではない。
日本もカバネはかつてあった。源平藤橘だな。だから、「源朝臣徳川家康」と、カバネと苗字を併記していた。
しかし、明治初期に源平藤橘を廃止した。欧米にはそんなもんないから、欧化政策といって、少しでも欧米に近づくためな色々真似したわけだ。
これで現在困っているのが、中国韓国にルーツがある人々というわけだ。
中国韓国には「家」という概念はなく、苗字という制度もない。
あくまでカバネは「父系の血統」をあらわすわけだ。
だから、苗字を「カバネ」として認識し、「生まれながらの苗字を変えることはアイデンティティーを失うことになる」という
壮大な勘違いをし出したのが、夫婦別姓の基本だな。
一方でワシらちゃんとした日本人は、苗字は「家」をあらわし「血統」を意味しないと理解している。
なので、養子や婚姻で苗字が変わることを、新しい家の一員になることを幸せだと認識するわけだ
明治初期に、国民全員が苗字をもつようになると、明治政府も日本の伝統に則した法令を出した。
明治8年12月8日太政官指令では「妻は夫と同じ苗字を名乗るべきこと」と夫婦同氏を法制化した。
一方で、明治13年まで日本は一夫多妻制を法律で定めていたから、
明治9年3月17日太政官指令では「婦女、人に嫁して所生の氏を称すべき」として、「妾」(結婚していないまま、人つまり夫ではなく彼氏と暮らす女性」は別氏だと定めた。

258:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/18 20:18:52.99 XFj4CRhS0.net
「わたしのいいひとなの」とか時代劇でいうだろ。当時は彼氏のことを「人」といったわけだ。
これは日本の慣習だから、やがて一夫多妻が欧化政策で廃止され、昭和、平成、令和になっても慣習化し、
「妾」つまり「婚姻契約無し」で「彼氏」と同居して夫婦同様の性的関係を持つ女性を「内縁」と呼び、「事実婚」という法的効果を与えたわけだ。
どうして妾は夫婦別姓で相続権なしかというと、
当時は家督相続と遺産相続と2種類あってな、家督相続はたいてい息子がして、墓や仏壇など祭祀財産を引き継ぐが、
遺産相続は妻がする。つまりお金な。
婚姻契約をしてない妾は、夫が死んだらそこまでだよな。別に家を守る義務なんてないし。
だから、不用意に遺産相続させないため、相続権無しにしたわけだ。
もっとも、妾から妻の昇格が認められたため、相続したいなら夫婦同氏になると明治9年3月17日太政官指令で定めたわけだ。
これを現在の法務省なんかは、当時の太政官指令を改竄。
「婦女」を「妻」に改竄、「人」を「夫」に改竄し、明治初期は夫婦別姓だったという虚偽公文書を作成して、国民の洗脳作戦をいましているがな。
まあようするに、夫婦別姓の論争とは、
「中韓にルーツをもつ新しい日本国民が、苗字を家ではなく血統をあらわすものだと勘違いして、純粋な日本人と対立している」というわけだ。
日本も昔は「家」はなく、苗字はなかった。
しかし、アジアでは唯一、一般人の土地所有が日本では永続的に認められたため、土地を所有する者として、苗字かも発達した。
だから、山田とか前田とか田んぼがつく苗字が多く、また中央貴族が否かにきて土着して土地を所有した。武蔵国に土着した藤原氏が武藤を名乗ったりとかな。
いいか!
夫婦同氏と相続権有りはセットだし、夫婦別姓と相続権無しはセットだ。
日本国内で変な民族運動をすな!

259:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/18 21:14:40.06 XFj4CRhS0.net
中国人民解放軍空軍の父
林 弥一郎
ソ連への降伏を拒否し、チームを率いて潜伏し、中国共産党に降伏し、
部下300人の安全確保を条件に「東北民主連合航空学校」設立要請を受け入れ、教官を務めた

260:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/18 22:19:27.42 XFj4CRhS0.net
日本軍は延安に非常に近い山西省にいくつかの空港を持っていたが
なぜ日本の悪魔は延安を爆撃しなかったのか?
当時、延安では大規模な集会、京劇、舞踊、両歌の日が多かった

日本軍は延安の軍隊の詳細を知らず、あえて軽率に行動しなかった
日本とソ連は不可侵条約を締結し、ソ連の中国代理人である中国共産党

日本の戦犯は共産党新政府によって早期釈放
田中角栄を見て、日本の戦争賠償を望まなかった

261:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/18 22:44:54.26 XFj4CRhS0.net
満州族の清とモンゴルの元が中原に入城した時、漢族の抵抗を鎮圧するために虐殺を行ったが
しかし、彼らは最終的に失敗しました - 戦場での完全な敗北ではなく、文化的な敗走でした
漢民族は征服され、抑圧され、疎外された後、人口学的優位性と同化の浸透力によって逆転を完了することができます
漢族がトップに立った理由は軍事力のためではなく、漢族が受け継いだ家族倫理と豊穣文化のためだった。

中国共産党は、家族の香を維持する漢族の豊穣文化を破壊した
中国共産党だけが「封建的迷信」と「集団所有」の名の下に、墓を大規模に破壊

画一的な一人っ子政策は、数億の家族の生殖の意向と文化継承の道を断ち切った。
四老の洗脳と文化大革命は、先祖、氏族、古典、先祖の教えの認識を破壊し、
「先祖を敬い、親孝行する」という儒教の中核倫理を断ち切った。もともと自給自足し、
世代を超えてつながっていた農村制度は破壊され、
都市の出稼ぎ労働者、置き去りにされた子供、根を失った若者が大量に出現しました

対照的に、イスラム世界は、経済的、技術的、制度的に疎外されているものの、信仰という 3 つの重要な点を保持しています。
貧困と苦しみは、宗教的結束と世代間の忠誠心を破壊していません。3 世代の共同生活、家父長制、宗教的結婚により、
家族は強力な要塞となっています。高い出生率は崩壊しない人口基盤を維持します。イスラム教徒は生まれつきの排他性を持っており、
他の民族グループと同化することは非常に困難です。 中国の人口学者はいつも「イスラム教徒は統治が難しい」と言いますが、
本当の理由は、彼らが私たちが失ったすべて、つまり豊饒、信仰、文化的アイデンティティ、民族的結束を持っているからです。

262:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/19 00:09:20.21 /RDoRbi40.net
日本では多く人が写真検証し、南京とは無関係、または偽造されたと判明している
南京事件のユネスコ記録遺産にはこの種の無関係の写真が使われている
この記録遺産は偽造を指摘される恐れから未だに非公開

263:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/19 00:18:20.14 /RDoRbi40.net
東條総理 は「日本は侵略戦争はしていないので、戦犯としての責任は否定」した。
しかし「敗戦の責任は受け入れる」として、国民に深く謝罪した。

264:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/19 00:28:55.34 /RDoRbi40.net
扶余と高句麗(こま)は、「倭と日本」のような関係性に見えます。つまり同族または同種であるってこと。

265:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/19 00:58:52.48 /RDoRbi40.net
746年)で、1100人という多人数が到着したという記録である。
当時の船(遣唐使船)は、大きければ 1隻に100~105人が乗ったとされているので、
少なくとも11隻以上の大船団であったことになる

これは渤海支配に抵抗する鉄利靺鞨人らが日本に大挙亡命
上京竜泉府への遷都は、渤海の北部靺鞨諸族支配の進展と関連するといわれる。
実際、越喜・鉄利・払涅の対唐遣使は740年代初頭で途絶えており、
この後まもなくして渤海に完全服属したと考えられている

安車骨靺鞨(あんしゃこつまっかつ
渤海の北進に対抗して鉄利部を中心に統合されたので鉄利部ともいい、
かつての粛慎・挹婁の末裔で勿吉もっきつの中心部族

「人尿で手や顔を洗う」という風習
毒矢

266:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/19 02:30:17.03 /RDoRbi40.net
淝水の戦い
前秦は兵力が多過ぎて補給に難があり統率が取れず自壊したということですね。
前秦軍は遠方からの遠征軍な上におまけに色々な諸民族・諸部族の兵士で構成されているので、統率も難しかった…、
というよりできなかったんでしょうね。(言葉も全然違うから、意思疎通に苦労したとも思う。)
東晋軍は戦場がほぼ地元だし、数も少ないし、兵士たちも漢民族が中心なので、うまく統率が取れて、補給も比較的楽
戦勝の知らせを聞いた謝安は客がいる時は平然としていたけど、客が帰った後に大喜びしていたエピソード

中国は北部を統一した王朝が南部に攻め込んで敗退するパターン多いですよね。
モンゴルですら南部を滅ぼすのに結構時間かかった
一方で江南から華北を征して中華を統一したのは明だけ

北朝はいかにも遊牧民的な国家だけど、北魏あたりから禅譲したり、有力者が傀儡皇帝擁立とか権力構造が変わった感

267:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/19 10:55:15.21 /RDoRbi40.net
市場でお金を稼げず税金規制型企業が、企業献金によりバラマキ政治を作り出している。なので減税はされない。諸悪の根源は企業献金なのです

268:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/19 11:29:14.44 /RDoRbi40.net
政権が変わるたびに政策が変わるのはありますが、韓国のように対外政策が180度変わる国はまずないでしょう。
日本も民主党政権が生まれましたが、対外政策は自民党政権と基本的には変わらなかったですからね。
北朝鮮と国交を結ぶとか、台湾の代表部を撤退させるとかはしなかったですからね。小沢一郎が引率した200名にも及ぶ国会議員団訪中は、
かつての自民党親中派の延長に過ぎない。日本は中国の属国になるべきだと言った元財界人を駐中日本大使として送り込んだぐらい。
それでも尖閣諸島は日本固有の領土だとして国有化し、その結果、中国で反日デモ暴動を引き起こし、
レアアースの禁輸措置を受けたのですが、野田首相は一歩も譲らなかった。
韓国は対外政策、特に北朝鮮政策が180度変わるからなぁ。アメリカもつき合いきれないってところでしょう。

韓国の大統領は毎度交替するたびに新しいことをぶち上げるんですが、
具体性も計画性も実現性もない砂を噛むような空虚な夢物語がほとんどですね。
金大中が大金を北の将軍に渡してノーベル平和賞を勝ち取りましたが、その結果は、南北統一ははるか遠くになり、
核開発だけが進行したトンダ結末でした。

外交というものは相手国があるものです。その中で、南朝鮮があーだこーだとのたまうわけですが、
合意も得ずに、ときにホラを吹く南朝鮮に対して、好意を向ける国や地域は存在するのでしょうか?

何か誤解があるけれど、南北朝鮮はさっさと相互承認すりゃいいんですよ。数十年前に国連に同時加盟しているんだから、国際的には特に変化は無い。
(変えないといけないのは、韓国の国内法だけ。)
相互承認しても、南北が互いに仮想敵国であることには変わりない。米韓同盟は維持されても問題ない。また、日米が北を承認するかどうか、
北への(核開発などに対する)制裁がどうなるかとは、直接関係ない。
相互承認=「平和」とかいうアホなヤツらの馬鹿騒ぎだけ無視すればよい。
(日米は、中露と国交があるが、中露を仮想敵国として日米同盟があるし、一定レベルの経済制裁もあるわけで、それと同じ。)
一番厄介だったのは、南北の連邦制(事実上の相互承認だが半島全土の潜在的主権を互いに持つ)。
南北が別の国なら日米は北に勝手に制裁できるが、連邦制だと(潜在的主権を持つ)南が口を挟んでくる。
文政権がもくろんだけれど、北が拒否したのでもう無い(はず)。

269:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/19 13:27:51.70 /RDoRbi40.net
今の韓国人は百済や高句麗の直系子孫ではない
韓国人の言っている事は芸能人が住んでいたマンションに引っ越し
自分をその芸能人と言い張っているに過ぎない

畿内の古代氏族1182氏の内訳は、元からの倭人系が856氏族(72%)、渡来系が326氏族(28%)となっている。
・そして渡来系(諸蕃)の内訳をみると、
漢(中国)系163氏(14%)、百済系104氏(9%)、高句麗系41氏、新羅系9氏、任那系9氏

イギリス(イングランド)の王位相続人に与えられる称号は、「プリンス・オブ・ウェールズ」

270:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/19 14:13:13.11 /RDoRbi40.net
「~という野蛮な異民族は最終的には漢化した」って言い方って妥当なのかな?
「漢化」という概念そのものが曖昧すぎていまいち理解できてない。
漢字やそれに連なる古典や文化を享受したという意味だったら、
飛鳥、奈良時代以降の日本も「漢化」なのか? と思うのだが・・

契丹キタイにしてもそれのやや漢文比率が多いと言うだけで、ウイグル王国や
日本の場合と根本的に違いがあるようには思えない

明に投降したモンゴル人は漢姓賜って漢化しているけどね。
でも、モンゴル(元)が完全に漢化しなかったのは
先にイスラーム文化圏を見て
「漢文化だけが特別優れている訳じゃない」と思ったから

満洲語でアイシン=黄金  ギョロ=氏族
モンゴル帝国由来の「黄金氏族」になりたかったんだろうけど別に子孫じゃない

金がモンゴル帝国に滅亡させられた際には、故地を既にモンゴル軍に奪われて中原に取り残された大勢の女真が
モンゴル人と漢人双方からの攻撃を受けて大半が死滅

271:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/19 15:28:38.21 /RDoRbi40.net
漢と匈奴、ペルシャとスキタイってい似てる部分もあるね。
ペルシャはギリシャとの戦いばかりが目立つけど、スキタイにかなり苦戦している。

ロシア皇帝は東に対してはハーンの称号ももっている

羌「タングート」 現在はもう完全にチベット化したけど
チベット人は「タングート」を「ミニャク」と呼んでいて、
現・四川省西部(チベットで言うところの「カム」)にその末裔がたくさんいる。
「西夏のタングート」もこの辺が原郷で、「王国滅亡後故地に戻っただけ」という説もある
「ミニヤコンガ」なんていう山は「タングートの白い峰」という意味だ
シッキムの王家も「ミニャク」

272:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/19 15:40:39.97 /RDoRbi40.net
秦という国は、純粋な農耕民からなる国家だったのか?
中原諸国からは蛮夷扱いされてた

秦の建国伝説には、牧畜(馬)に長けていたと言うことで周王に認められた、という一節があります

秦は西戎ではなくて北狄

古代の華北には広大な原生林が広がっていたらしい。
それが開墾と鉄器の普及による乱伐でどんどん失われていき秦漢時代にはほとんど消滅してしまったそうな。
この森林破壊のスピードと北方遊牧民の脅威の度合いが妙に比例する
春秋から戦国前期あたりまでは北方遊牧民が中華世界を脅かす大勢力という感じはあまり受けないが
秦代にはもう匈奴の圧迫が重圧となってのしかかっている。

講談社学術文庫の「魏晋南北朝」では、冒頭で中国の北部を「見通しのよい平原が広がるオープンランド」とし
、南部を「森林が多くて動きにくいフォレストランド」としている。
満州も森林地帯。華北が砂漠になっても、ここは残ると言われている。遊牧民が入りにくい、狩猟民の世界

モンゴルがポーランドから先には一気に突進できなかたのは、森林や山脈に阻まれ、騎兵の運用に難があったため

273:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/19 15:56:08.33 /RDoRbi40.net
中国大陸の政治史は、中国人・モンゴル人・満州人の争い。
これは、中近東でのアラブ人・イラン人・トルコ人に似ていると言えなくもない。
イスラム世界の中心はアラブ人なのだが、政治的にはイラン人・トルコ人の力が強く、常に波乱要因になったり、支配者になったりする。
違いと言えば、中国人(漢民族)の人口が極端に多いこと

農耕民族→漢民族
農耕狩猟民族→女真族
遊牧民族→蒙古族

中華思想ってのは都会人による田舎っぺ差別であって、本質的には民族差別ではなかった
日本における都鄙関係と似ているかもしれない。

中国に侵入し征服王朝を立てている民族は悉く漢化していますよね。
それだけ漢民族の文化が魅力的だったのかも知れませんね。

↑「漢民族の文化」ではなくて「中華文明」なのでは。
「中華文明」の方が適切ですね。

元朝秘史は完全に漢民族のつけた題ですよ。正式には題名がないんです。
ちなみにモンゴル秘史には元朝に関してほとんど書いていなかった。

遊牧民の集団なんてアメーバみたいなもので、どこまでが匈奴、どこまでがスキタイとか明確に分けられるものじゃない。
飢饉になれば部族は四散するし、強力な指導者が出ればあっという間にそこらじゅうの集団が次から次に帰参して一瞬で大帝国の出来上がり。
匈奴やスキタイといっても、はっきりその名が通用するのは心臓部の一部集団だけだろう。他の連中は見方次第でどうとでも見なせる。

杉山氏ってさんざん「バイアスのかかった中華史観」だの弾劾するくせに
自分も不条理なくらい遊牧民をえこひいきしてんのは自覚してんのかな。

274:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/19 16:19:09.94 /RDoRbi40.net
遊牧民は定住文化を持っていないから、定住し始めると同化されるのは自然現象。

汎トルコということになるとトルコの教科書では堂々とそれが書いてあるんだよね。
「西進したのがトルコ人、東進したのが日本人」てな具合に
おそらく発生したのは日露戦争の頃だろうな

メルカトル図で見るから遠く感じるけれども、球体で見れば高緯度地帯を通る距離は短い。
モンゴル高原から、支那もヨーロッパもそんなに遠くは無いよ。

遊牧民は万里の長城をどうやって突破したんだろう。
人はともかく、遊牧民ならば馬と荷車を通過させられないとその後の進軍ができないんでは?

今の長城は明代のものだから、昔はそんな立派なものじゃなかった。
それに写真やTVでよく見る山上に堅固に築かれてるのはごく一部。西に行くほど低い

後漢の頃に鮮卑の気候が悪化し困窮していると聞いて漢は北方へ出兵し弱っている鮮卑を徹底的にたたいたという記録があったような。
「溺れている犬は叩け」そのもののやり口で遊牧民が悪天候で弱ると漢民族はすかさず攻撃を加えて遊牧民を叩いている。
漢民族の間では「馬肥える」というのが憂鬱な表現であるように天候に恵まれ馬を充実させ力をつけた遊牧民が攻めてくるパターンだが、
フン族のようにヨーロッパでは悪天候で困窮した遊牧民が襲ってくるパターンだった。
飢えて弱っている遊牧民にやられてしまうヨーロッパ諸民族が異常に弱い。

中国北方の遊牧民が南の漢民族を攻撃するという状況は遊牧民が統一され強大な勢力を築いているか、(匈奴・モンゴル)
漢民族が分裂して弱体化しているかのいずれかで、(五胡十六国)
漢民族が富み、遊牧民が飢えている状況では遊牧民側が漢民族政権に帰順し経済的援助を請うという事態は見られるが
飢えた遊牧民が富める漢民族を攻撃して勝利するなどというのは到底不可能だった。

明は富んでいたものの、襲撃していた時点のモンゴルも飢えていないし、馬資源が充実し、
アルタン・ハンという英主を頂いて勢いが盛んであった。
モンゴルは武力にものを言わせ、有利な取引協定を明側に認めさせている。
明はモンゴルだけでなく満州族の勃興にも気を配らなくてはならない状況だった。

中央アジアの遊牧民の人たちは蹄鉄って打ってたのかな?
それとも戦国以前の日本みたいに焼き鏝あてて硬質化させたり藁沓はかせてたんだろうか?

275:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/19 16:42:09.92 /RDoRbi40.net
宋なんて、遼だの金だの夏だのに貢ぎものをしてようやく独立を保っていたようなものじゃん。
中原も半分は取られてるし
科挙なんてものは、試験で官吏を選ぶというお題目は立派なものだ。が、実質的には、貴族の横占を
容易にして政局を不安定にするためものものでしかなかった
南宋なんて中央は恩蔭組が幅を利かせ、地方は軍閥の天下でしょ
宋は支那文明の終わり花みたいなものだ。
技術や社会制度の進歩が無い支那文明が、余ったエネルギーを享楽に注ぎ込んで絵画芸術が華やかになったに過ぎない。
日本の中世の行き詰まった、徳川幕府期の元禄文化や化政文化のようなものだ。

確かに明清期にはその後進性が目立つようになってきた。
だが宋代は南北期を通じて世界の最たる制度だったのだよ
唐代にあった蔭位の制のような、貴族に対する試験免除制度も無くなったし
受験資格も広く開放されていた。貧しい階級の人間が科挙を通る事もめずらしくは無かった

科挙を単なる登用試験制度のように勘違いしてるバカがはびこってるなぁ
実際の科挙は、募集要項も日程も登用する人数や官職も、どの時代の科挙にしたってすべて非公開。
判っていることは、下級の試験ですら、相応の官職にある者の推選が受験資格。
コネと財力が推薦を得られない、官職に就いてる者しか試験の日程や応募のしかたすら判らない。
試験によって有能な者を官吏に登用する名目が、結局のところは、特定の縁故の者が官職を占め。
賄賂社会を築く原動力にしかならなかった。

国力って難しいよね。
日本人が大好きな「経済力」もその国の一つの要素でしかないしこういう基準はどうだろう?
「その国の文化文物がまねされる程度」。古代に栄えた国のさまざまな有形無形の産物は周辺国に受け継がれ、またそれを戻して取り入れ相互に循環しながら
発展していくもの。だから支那が当時の世界でどのくらい栄えていたかは西方に支那の文物がどれだけ伝播したかである程度
見当がつくと思うのですが。

276:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/19 17:00:53.21 /RDoRbi40.net
日本人は外国の王朝の"帰属の基準"を血統に偏らせ過ぎてるといわれた
たとえば中国の学界は、隋や唐を当然ながら純然たる中華王朝、すなわち、漢民族の王朝とみたがる(というか断定してる)
ところが日本の学界は、隋や唐の初期の皇帝が草原の出身すなわち万里の長城の外、遊牧民の血統者であることに粘着し
隋や唐を半征服王朝といった位置づけで捉えている
つまり近代国家成立以前、国境などあってなかったような大陸では隣の民族と血統を峻別することなど不可能、という諦念があって
その王朝の帰属条件を文化に求める傾向がある
つまり祖先が遊牧民であっても、漢民族の言葉をしゃべり、漢民族の服装、文化、つまり風俗を受け入れた者は漢民族に認定する、という感覚をもっている
一方、古代から海で国境を隔てられてきた日本人は自他の民族の血統を峻別しようとする傾向がすさまじい
とっくに混血してトルコ化しているティムールの一族を祖先がモンゴルから来たからモンゴル人だ、などというのは
日本人の血統信仰の証左に過ぎまい

唐は中国最大の領土の上日本に一番影響のある国だから
漢民族ってことにしとかないとあいつら中国人の面子が維持できないんだよw

元王朝は、支那支配のために中原王朝風の帝号だの国号だの使い始めた時点で漢人王朝なのか?
中華のシステムを取り入れたのは支配の手段。
元の支配者はモンゴル人であり続けたから、元はモンゴル人王朝。
漢人ってのは、民族のアイデンティティーを捨てて最大公約数に埋没した者のこと

漢民族って概念が出来たのは1900年くらいだからね~

岡田英弘氏って凄い中国の事を批判してるよね。
中国が好きだから中国研究してるって学者はたくさんいるけど、
中国が嫌いだから中国の研究してるって学者はあまりいないけど
中国政治の中嶋嶺雄や中国経済の渡辺利夫も同じタイプ。

漢民族は気質的に軟弱だからね
2次大戦の時も戦闘中でも飯が冷めてると食わないようなやつらだったし
過酷な生きるか死ぬかの遊牧性格してる尚武の精神の奴らに勝てるわけねぇよ
遊牧民はほぼ全員を高機動性の戦闘員に使える。農民を戦闘員にするのはかなり手間

277:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/19 17:01:08.96 /RDoRbi40.net
中華を征服した北方遊牧民族も中華に帰化してしまう
ように書かれているが、実際は文字だけが残って北方遊牧民のほうに
帰化されているケースが多いのではないかなぁ
上海や、香港がイギリスの植民地だった時代には両親が中国人でも
英国国教会の信者になるケースがあったみたいだしww

278:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/19 21:50:47.58 /RDoRbi40.net
富農は大名に金を貸して利息を受け取っていたぞ
村全体で金を集めて殿様に貸し付けて、利息を公共事業に使っていた農村もある

朝鮮より遥かに豊かだった事は間違いない
百姓は米さえ納めれば後は自分の物だった

人口を時代的に見ると、
飛鳥・奈良時代が約500万人、平安・鎌倉時代700万、室町時代1100万人、江戸初期1300万人、
江戸中期3000万人、江戸時代末3300万人、明治末期5000万人と推定されている。
一方江戸時代から明治に重なる李氏朝鮮は、ずーっと500万人~1000万人で停滞しているし平均寿命が驚くほど低い。

時代考証を完全無視したファンタジー歴史ドラマにより、韓国人は「色鮮やかな衣服に身を包み」「品物溢れる市場で貨幣で買い物」
「整備された道を歩き」「玄関のある立派な木造住宅に住み」
「栄養価の高い食事を毎日3食しっかりと食べる」と云う中世生活を送っていたと信じているようですからね。

2階建てが無いのは、建築技術の問題ではなく、腐れ儒教の影響が強い。
中華の代官(=朝鮮王)より、高い建物に住むことが許されなかったw

279:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/19 23:10:56.65 /RDoRbi40.net
唐朝では、蕃将ばんしょうと呼ばれる非漢族出身の将軍(タラス河畔の戦いで敗れた高句麗出身の高仙芝こうせんしやソグド系の安禄山あんろくざんはその一例)が活躍し
、インドからは密教の高僧が相ついで渡来

安西都護府 
漢が前59年に西域を統治するために置いた西域都護が始まりで、
その後、後漢では光武帝の時、班超を派遣して亀茲(クチャ)に都護府を設置
唐は帰属した異民族の地域に西域経営のため、トゥルファンの高昌に置かれた。後に亀茲(クチャ)に移る。
亀茲に加えて于闐(ホータン)・疏勒(カシュガル)・焉耆(えんき、カラシャフル)を安西四鎮
次第に有名無実化した

280:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/20 00:07:14.54 6tpViuOP0.net
韓国のマンガ、死ぬほどわけわからない悪の根源がいて、ありえないぐらい酷いことして、最後まで酷いんだけど
日本の物語って、悪いことした人も貧乏で食べる物に困ったからとか、あとで反省していい人になるとか、心の底から悪い人ではないんだよね。。。

韓国のそれ、福音派のキリスト教の影響かもでんな。福音派は絶対悪たる悪魔を非常に意識しますから…
一方、日本の神道には絶対悪て存在しないです

281:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/20 00:40:02.00 6tpViuOP0.net
日本の陸軍は創設当初からフランス陸軍を模範としていたが、1870年の普仏戦争でフランスがドイツ(プロイセン)に敗れたことをきっかけに、
ドイツ陸軍を手本とすることに切り替わった。

明治以来、ドイツに教えを乞いながら、第一次世界大戦ではイギリスに与して参戦し、極東の植民地をかすめ取った国。
しかも、外国から資源を輸入し、工業製品を輸出するというドイツと同様の産業構造を有しているがゆえに、資源の確保と国際市場の占有においてライバルとなる。
ドイツの伝統的支配層の大多数が日本について抱いている認識は、このようなものだったとみてさしつかえない。
これに対して、もう1つの極東の大国である中国は天然資源に富み、原料輸入元として重要であると同時に有望な輸出市場でもあり、ドイツ経済に大きな影響を与え得た。
したがって、ドイツの極東政策においても優先されるべき存在だったのだ。

日独両国は共に「遅れて来た帝国」としてアジアで競合関係にあったため、日中戦争は中国を巡る「日独戦争」とも称されました。

282:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/20 01:04:11.31 6tpViuOP0.net
日本には、源平藤橘(血筋をあらわす)と苗字(現在の家をあらわす)がある。
中韓などには血筋をあらわすものしかなく苗字がない。
中韓由来人は苗字を「血筋をあらわす」と勘違いして、アイデンティティー喪失を言っている、という話

日本の苗字を中国朝鮮のカバネだと勘違いしてる様子」しかなくて戦慄よ。
「藤原一族の名前は結婚しても変わらない!」とか言ってて、源平藤橘が苗字ではないことを理解してない

夫婦別氏は「婦女」であり「妻」ではありません。日本人ではない方がコミュニティノートを書くと、
「妻」という文字が無いことに気づかないわけです。
(※中国朝鮮では婦と配偶者は同義語。日本では配偶者は妻という

283:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/20 14:51:41.23 6tpViuOP0.net
オルドス チンギス・ハーンの終焉の地であり、今も彼を祀る祭殿「オルド」が残っている。
もっとも、この祭殿と、そこに関わる祭祀集団「オルドス万人隊(万戸)」がチンギス・ハーンの最期の地とされる
故西夏(タングート)に入ったのは、15世紀末のことである。それ以降、オルドス万人隊は西はアラル海
、南はチベット高原、北はモンゴル高原へと長距離の移動を繰り返し、17世紀前半に清朝が成立すると、定住を強いられることとなった。

モンゴル人が語る歴史は、偉人を神格化するのではなく、失敗談や女性観といった人間的な側面に焦点を当て、情愛を伴って語られる

歴史の結果よりも、その因果関係に強い関心を持っている。したがって、年代順に出来事を並べるよりも、
後になって振り返って見出された遠因や因縁について、
分析的に語ることを重視する。その結果として生まれるのが、単なる年表ではなく、喜怒哀楽に満ちた長編の物語である

284:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/20 16:20:40.10 6tpViuOP0.net
三国時代と、これに続く両晋・南北朝時代は中国史上でも有数の分裂時代であった。
実質的には300年
ある勢力はこのような状況を利用して中国王朝との関係を強化し、
また中国王朝の側でも周縁の勢力との関係強化につとめる動きが活発化していった
倭王卑弥呼による曹魏への遣使や、倭の五王による南朝への遣使もこの時代のことである
非漢族のうち、烏桓、山越、鮮卑、高句麗、氐、西南夷、クシャーナ朝、そして倭

285:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/20 16:41:22.15 6tpViuOP0.net
昭和二十一年七月の話です
おとなしい捕虜だった私たちが、たった一度だけ騒動を起こした。
帰還船に乗せてもらえなかった時だった。スコップを持って騒ぎ、自動小銃を持ったイギリス兵に取り囲まれた。
やがてここで騒いでもどうにもならないと我に返り、事なきを得たのだが、この騒動をインド兵がひどく勘違いした
日本兵が反乱を起こし七人のイギリス人将校を殺した。日本兵は素手でそんなことができるのか?」
「私たちの仲間では、日本軍は武器を隠していていつかまた起って、ラングーンやビルマを占領するという噂がある。いつやるのか?」
こういう根も葉もない噂がインド兵のあいだで飛び交った

286:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/20 17:47:46.30 6tpViuOP0.net
満州に派兵されていた関東軍は満鉄の守備と在留邦人を守ることが主たる目的とされ、
当初は一万五千程度しかいなかった。一方張学良軍は三十万とも四十五万

満州事変が勃発してすぐに張学良軍は満州から逃亡し、敗残兵は各地で掠奪・暴行を繰り返していた
匪賊化した兵士を「兵匪へいひ」、中国共産党の指導の下に活動した匪賊を「共匪きょうひ」とも呼んでいた。近くに匪賊が現れたとの連絡があると日本兵はすぐに出動した。
匪賊らは民家を襲って金目の物を掠奪すると、山奥にある彼らの棲家に戻って行く

三百八十名の土匪が投降したのを画いたもの。故郷に帰る者には日本円にして六円七十銭の金を与えた

兵匪の襲撃、ソレ出動。兵隊さんは奔命に疲れて夜となく昼となく隙さえあれば眠りこけていた。
全くの過労。一目見た我らは感謝の念に目頭が熱くなった

柳条湖付近にあった支那軍の兵営
人民は住まない。掠奪をするからだ。北大営並木の側に便意隊の死体数個が埋めてある。
手が出たり足が出たり、それを鳥や野犬が食い散らかしている。支那に来て初めて知る文明日本の有難さ

治安が回復して避難民が帰って来たところを描いている。民衆が怖れていたのは支那軍であったことが良く分かる。

皇軍入城の声におびえた住民はことごとく何処ともなく姿を消したが、十数日を経て続々帰還した。
正義の軍に感激して、今や彼らは安んじて業務にいそしんでいる。軍隊と言えば掠奪するものと思い込んだ彼らだ。
日本兵が一文の品にも金を払うのに驚異の眼を睨った。
しかし商売に抜け目のないのも彼らである。昨日の恩を忘れて、一箱四銭の煙草を十五銭に売り出した彼らである
後日に到って今日の恩を忘れて苦情を言う彼らでないかを怖れること深いものがある。

287:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/20 21:29:08.78 6tpViuOP0.net
水木しげるの漫画 行列は当時話題となっていた千田の「従軍慰安婦」の書き出し部分を漫画化したもの
水木の体験談ではなく、創作で作品に色を付けた
千田夏光はドキメンタリー風の小説、金一勉はエログロ小説、続いて慰安婦で売り出した吉田清治は売れない小説家だった

288:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/20 23:24:49.86 5qPtoser0.net
歴史はイデオロギーではない。ところが、中国・韓国にとっては歴史こそは政治にほかならない。
事実を歪めてでも自国の利益を拡大しようとする儒教イデオロギーによるプロパガンダの手段が彼らにとっての歴史なのだ

ロシアがソ連に変わった時、ソ連は一旦北満州の領有権を中国に返しましたが北満州は力の空白地帯となりました

インドではイギリス人たちが直接インドの人々を統治していたわけではありません。
インドにはマハラジャと呼ばれる地方の領主たちがいました。イギリスはそのマハラジャたちを自分たtの側に取り込み、
彼らを通して間接的な統治を行いました。そして自分たちは政治的あるいは軍事的な「助言」を与える顧問としてマハラジャたちを操っていました。
この形は満州国において関東軍が行った統治の形と同じです。
つまり石原たちは西欧列強のやり方を模倣したのだということです

明ができても元が消滅したわけではなく、北に戻っただけ。その元に負けっぱなしの明。

289:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/20 23:44:48.42 6tpViuOP0.net
中国の王朝は何時の時代にも国境を確定しておらず、国境の概念はなかったと言う。ロシアの南下に伴い、必要に迫られて初めて国境を定めたのが1689年のネルチンスク条約であった

張作霖、張学良、その他の軍閥による苛斂誅求が厳しく、漢民族は、発展した満洲鉄道の利権を条約無視により剥奪し、
満洲人、蒙古人、日本人、朝鮮人を暴力的に排斥し出した。
満洲は安寧が保てない混乱状態が続いた。この状態を治めるべく
この後、満洲全体を制圧し、治安を維持し、行政、司法、銀行設立など統治体制を確立した満洲帝国の建国に至る。
満洲帝国は、近代政府機構の設立に経験と知識を有する日本の官僚が、
その知識を有さない漢民族や満蒙民族に代位して、建国し政府活動を支えたものである
日本の国税の投入、日本保証による債務により、近代国家として繁栄

一九一七年まで、満洲が中国の一部とは誰も思わなかった。だがコミンテルンが満洲は中国だと煽り、排日運動をやらせた。

歴史とは因果関係を明らかにすることである。歴史では道徳的価値判断をしてはいけない。判断が入ると政治になる。歴史は法廷ではない

290:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/21 01:25:18.25 Atlon48U0.net
西洋の大多数の人にとって中国はいまだ謎に包まれたままである。理由の一端は、中国が何世紀もの間、
他国と比べると自己充足的な時を過ごしていたことにもあるのかもしれない。鄭和が大航海を行った15世紀初頭のような拡張の時期もあったが、
歴史の大半を通じて、中国の統治者たちは遠い異郷よりも近くの自領に関心を注いできた

西ローマ帝国と漢王朝は、いずれも“蛮族”の侵入と内憂に耐えきれず崩壊した。しかし、ローマ文化が歴史書のページに埋もれてしまったのに対し、
中国文明はその後再興を果たし、唐王朝と宋王朝のもとで黄金時代を迎える。何世紀にもわたる中国史の恒久性にはさまざまな要因があり、
その1つが、地理的に比較的孤立していたことである。東は海に隔てられ、西(のちにシルクロードが通る地域)を砂漠と山岳に守られたこの国にとって、
脅威は常に北方からやって来た。その防御策として万里の長城が築かれた

儒教の伝統は、中国の最も特徴的な要素と言える。のちにエリート主義の象徴に堕してしまう

陶器と石弓は1300年、鋳鉄は1200年、家畜の引き具は800年、機械式時計は600年、それぞれ西洋に先んじていた。そのほか、火薬、方位磁石、活版印刷術は、
いずれも、中国以外の世界で普及するよりもずっと前に中国に登場していた

291:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/21 01:30:04.27 Atlon48U0.net
「頭脳流出」の問題を抱えた国もあれば、フィリピンのように失業率の低下や外貨獲得を目的として、国が「労働力」の輸出を推進するケース

292:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/21 11:43:37.95 Atlon48U0.net
荒唐無稽で暴力的な描写や登場人物の人物像を改め
朝廷に帰順し忠義をつくすことを理想とする集団と設定され、儒教道徳を兼ね備え知識人の読書にも耐えうる文学作品となった。
とはいえ、反乱軍を主人公とする水滸伝は、儒教道徳を重んじる知識人にはあまり高く評価されず、もっぱら「民衆の読む通俗小説」として扱われた。
その風潮の中で、明末の陽明学者で儒者の偽善を批判した李卓吾が、水滸伝のような通俗小説を高く評価した

293:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/21 13:34:09.38 Atlon48U0.net
参政党の「公的機関の職員の国籍に関する質問主意書」

・産業技術総合研究所、外国籍146人中、中国籍41人
・物質・材料研究機構、外国籍179人中、中国籍58人
・理化学研究所、外国籍481人中、中国籍138人
・科学技術振興機構、外国籍16人中、中国籍7人

日本の最新技術が中国人民解放軍に流出】
日本侵略の独裁中国共産党と研究協力は国賊行為

「理化学研究所」が中国人民解放軍のフロント企業とレザ-兵器開発に協力
情報通信研究機構も、中国と情報通信分野で技術協

294:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/21 14:10:16.74 Atlon48U0.net
南京大虐殺遭難者」名簿の石碑ですが、なんと「大奥」や「大白狗」といった中国人の名前まで刻まれています。

犬まで中国人扱いとは驚きです。ひょっとすると、犬の骨も人骨として記念館に
展示されているのかもしれませんね…

295:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/21 17:08:47.55 Atlon48U0.net
陸軍は1945年1月時点でアメリカ・中国相手にも大勝利をしていたのに海軍が戦争に弱すぎて負け、
その海軍の補給能力を前提した作戦を立てた陸軍助っ人部隊も全滅した

陸軍省は軍事法廷判決記録を保存して現在もあるが、海軍省は敗戦時に焼いた。
憲兵も特高も捜査できない共産主義者の聖域が海軍基地と艦艇だったことがあまりにも知られていない。
「海軍細胞」(海軍共産主義者軍人)の活躍を戦後、日本共産党が自慢げに語り

どの国でも陸が主で海は補助的立場なのに無理やり同等の立場にしたり、重要だと陸を島に呼んだ癖にろくに補給手伝わんとか
、大和の電探アンテナデカくしようと提案されたら「カッコ悪い」と却下したり

歌詞のひとつひとつを読み込むと、当時の日本人が何を考えて、何を目的に闘い、新秩序を築こうとしていたのかが、如実に現れてきます。

296:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/21 17:20:14.78 Atlon48U0.net
貨幣経済が発展してなかった朝鮮では外食産業が存在しなかった。
庶民の旅行も一切禁じられていたので宿泊施設も無かった。
役人が仕事で地方に出張する時も宿泊施設が無いため自分で食料を担いで行き自分たちで調理するしかなかった。
王家や有力貴族の家には料理人がいただろうが、万人に食べさせるわけではないので家庭料理の延長でしかなかっただろう。
日本は400年以上前から貨幣経済が浸透していて、特に江戸は地方から単身赴任する男性が圧倒的に多かったため外食産業が発展した。
また街道には宿場が設けられ金さえ持っていれば泊まることも食べることもできた。
各地に名物料理も誕生しそれが旅の楽しみともなった。
飲食や宿泊と言ったサービス業では日韓に400年以上の差があるってことだ。
唯一朝鮮で発展したサービス業はキーセンだけw

297:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/21 17:35:39.95 Atlon48U0.net
張 自忠(ちょう じちゅう / チャン・ツーチョン
中国軍最高位の戦死者となった。
階級章を外していたため当初誰なのか分からなかったが
日本軍は張への敬意と礼節を示し、その遺体を白布で包み、納棺して丁重に埋葬した。将軍の遺体は中国側に引き渡すことになり
、国葬の待遇を受けた。

298:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/21 17:52:48.46 Atlon48U0.net
国民軍が使用した航空機はすべてソ連の支援を受け(まさに、対価を払って)、
中国初の機械化師団である第5軍200師団は、大砲などの武器に加えてソ連戦車を使用した

中国は軍国主義的な日本にはならないでしょう、結局のところ、日本は単一の民族グループで構成されています。
中国の現在の状態は、ヨーロッパが崩壊する前のローマ帝国に近い。
ヨーロッパのような国が自決し、複数の国民国家に分裂して真に近代的な国
ローマ帝国はゆっくりと崩壊する過程を経て、最終的に地元の人々は第一次世界大戦後に自決することを決定しました。
歴史を踏まえて、この道だけが中国を真の近代国家にすることができます。

日本人が核爆発を記念する意味は、中国人が抗日戦争を記念する性質とは異なり
アメリカ人に血の返済を歯を食いしばって求めず、あの戦争が国民にもたらした災害を反省し、
平和を呼びかけ、歴史を振り返り、二度と戦争を避けていたが、中国はどうだろうか?

中国は既存の国際秩序の最大の受益者であるが、なぜ中国はこの秩序を打倒したいのでしょうか?

299:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/21 18:39:48.34 Atlon48U0.net
永楽帝
満洲(現在の中国東北部)の女真族に対して積極的に招撫策を行い、
洪武年間に5つしか無かった羈縻衛所が永楽の半ごろには200を超えており、
これを通じてモンゴルを牽制する体制を整えた

蒙古、女真、吉里迷(尼夫赫人)、苦夷(阿伊努人)、达斡尔

300:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/21 19:13:04.77 Atlon48U0.net
古代中国には「友人が遠くから来る」という有名な言葉があり、古代の多くの支配者も難民を喜んで受け入れ、
封建支配者が慈悲深く、すべての人々に同情的であることを示すために、難民を受け入れました。
600年前、中国は難民のグループを受け入れましたが、人々が予想していなかったのは、わずか200年後にこれらの難民が国を破壊したことです。
これらの難民はツングース系です。 約600年前、明の永楽時代に、シベリアから多数のツングース人が北東の土地に南下し、ツングース人は漁狩りをする民族で、狩猟が得意でした。
ジュディはトングース族が北東に移住したことを知った後、彼らに住む土地を与え、明の心を示すために最善を尽くした。
トングースカ族が北東に来た後、彼らは元々の女進族と一緒に暮らし、2つの異なる民族が一緒に暮らし、多くの紛争が起こるしかなかった。
2つの民族が互いに競争し、お互いを封じ込め合うことで、お互いの力を弱めるという目的を達成しました。
しかし、長い発展の末、北東部の明政府に予想外のことが起こり、トングース族と元々の女真族が完全に統合され、
明中後期にはトングース族の指導者ヌルハチも軍隊を率いて女進族を統一し、基本的に東北地域を統一した

301:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/21 19:52:38.36 Atlon48U0.net
トングースカは非常に古代の遊牧民で、ジン・ハンの東胡族に由来し、後にロシアに住んでいた満州族、西博族、オロチェン族、エベンク族、オロチ族、ナナイ族はすべてトングースの子孫だ。
元王朝末期から明王朝初頭にかけて、ツングース族は現在のロシアのシベリア地域に住んでいましたが、その後、戦争から逃れるために一族全体が我が国の北東部に南下し、
強力な明王朝の保護を得るために明王朝の臣民に服従しようとしました。
当時、明の先祖である朱棣は、王位を奪取するために静南戦闘を起こしたばかりで、北京への首都移転の準備を始めたばかりで、緊急に療養し、辺境を安定させ、戦争を最小化する必要があり、
北東の国境に位置する女進族は彼にとって常に大きな問題でした。 したがって、朱棣はこれを機にトングース族を北東部に配置し、女進族を牽制してバランスをとり、
明王朝がその中で漁師の利益を享受し、辺境を安定させるという目的を達成することにした

1900年8カ国連合軍が北京を占領した。 慈禧太后と習太后は光緒皇帝と共に西に西に逃げた。
当時、北京はほぼ無政府状態であり、清軍が大挙散らばり、民衆はパニックに陥り、略奪や放火が頻繁に起こった。
日本兵が紫禁城と国庫を「守る」
八国連合軍が市内に入城した後、各国の軍隊は北京の駐屯地を分割し、重要な場所の支配権をめぐって戦った。
日本軍は初期の行動により、紫禁城(紫禁城)の一部、特に乾清門と奉天店付近に先に入り、地安門と東華門一帯に駐屯地を設置した。
彼らは紫禁城のいくつかの出入り口を封鎖し、倉庫(太倉湖部区)に武装警備員を配置して名目上略奪を防いだ。
日本軍が乗っ取り中に、特に皇居の文化財や内務省の国庫にある現金に対して、一部の西洋兵士や反乱軍の略奪を阻止したという歴史的記録があります。
しかし、一部の中国および外国の史料は、日本軍自身も一部の貴重品を個人的に輸送したり、日本の戦利品管理機関に移送したりしたと指摘

302:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/21 20:28:01.84 Atlon48U0.net
日本はたった25人の軍人しかいなかったが、柴五郎中佐が率いて抜群の働きをした。
日本は各国から地理的に最も近いという理由で本国から応援部隊を出すよう要請されたが、野心があると思われるのを避けるため応じなかった。
しかし、再三イギリスなどから要請され、日本軍の活躍で連合軍は天津を占領することができた。
その後、連合軍は日本軍を主力として北京に進軍、8月14日に北京の公使館を包囲していた義和団と清国兵を駆逐し、
公使館区域の外交官や居留民を救出することに成功した。その後、連合軍は国ごとに分かれて北京を占領した。
ロシアは義和団の乱が支那から満州にまで及んだときに増派してついには全満州を占領してしまった。
しかし、清国はロシアを満州から追い払う努力は一切しなかった
(満州からロシアの勢力を追い払ったのはその後の日露戦争に勝利する日本である)。
もし日本が日露戦争で勝利しなかったら、(宣統帝溥儀の家庭教師だったレジナルド・ジョンストンが言うように)
遼東半島のみならず、満州全土も、その名前までも、ロシアの一部となっていたことはまったく疑う余地のないことだった

1900年4月には北京へ入り、列国の外交官らが襲われ、4000人が包囲され脱出出来なくなった。
列国は日本軍を中心に8ヵ国連合軍を結成し、救出。
日本軍は勇敢に闘い、かつ、国際法を守り、捕虜や民間人を手厚く保護した。
他国の軍隊は、中国人に対して略奪や放火、殺人を繰り返したが日本軍は皆無。
北京市長はロシア区域の残虐行為にたまりかね、英国公使にロシア地区を日本の管轄に変えて欲しいと訴えたほどだった。

満州にまで飛び火し、ロシア人が殺傷される事件も起きた。ロシアはそれを口実に満州占領へと乗り出した。
ロシア軍は怒涛のように満州に流れ込むと、街を焼き、略奪し、虐殺し、市民の生活を脅かした。
このとき何よりも怖いのはロシア兵はもとより、清軍の敗残兵だった。
兵士が市民から略奪するのは中国伝統の戦争文化とも呼ぶべき慣習で、兵隊とは市民に乱暴狼藉をはたらくものということが常識となっていた。

柴五郎は、北京各国の領事館区の2ヵ月におよぶ篭城中、
攻防戦の指揮官として各国から信用を得て、北京陥落後は軍事衛門長官(駐留軍司令官)として治安を担当

略奪を硬く禁じた秋山好古大佐。
「本国に持ち帰りを許可するものは、戦闘により入手した敵の武器・銃・刀・槍・弓のみである。
これは子孫に武勇を伝える戦争の記念品であるからで、他のものは一切禁止する。」

303:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/21 21:01:46.00 Atlon48U0.net
6月4日、北京-天津間の鉄道が、義和団によって破壊された。北京の外交団は万一の場合の脱出路を奪われた形となった

まずは各国の人物、能力を見極めようという腹だった。
さらに東洋人がいきなり議論をリードしては欧米人の反発を招くということも十分に心得ていた。
柴は会議の流れを掴むと、目立たない形で、自分の計画に合意見については
「セ・シ・ボン(結構ですな)」と賛意を示し、また防御計画の要については、ちょっとヒントを与えると、
別の列席者がさも自分の発案であるかのように提案する、という形で、巧みに議論を誘導して、自分の案に近い結論に持っていった

日本軍が外国軍隊と共に戦ったのはこれが最初であった

当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、この籠城をつうじてそれが変わった

最も多額の賠償金を要求したのは、籠城者救出を妨害しようとした上、
救出には日本の4割しか出兵しなかったロシア(29%。1億8千万円)であった。
次は、北京救出に一兵も参加しなかったドイツ(20%。1億3千万円)、第3位は日本の50分の1の出兵しか行わなかったフランス26%。1位6百万円)、
第4位はイギリス31%。6千5百万円)。
我が国は第5位(7・7%。5千万円)の要求で甘んじた。

北京・海兵間の自由交通を維持」するため、各国が郎房、天津、塘沽、芦台、山海関など12ヵ所の地点を占領する権利を承認した。

もしロシアが、この満洲還付協約を誠実に履行していたら日露戦争は起らず、
その後の我が国の満洲進出も韓国併合もあり得なかっただろう。
ロシアがいったん占領した土地を平和的に所有者に返した例は、帝政ロシア、ソ連邦を通じて一度も存在しない。
ロシアが対韓侵略の意図を露骨に表すようになったのもこの頃である。
まずロシアは、森林保護を名として韓国の竜岩浦(鴨緑江河口)を軍事占領し、続いて7月(1903年)には兵力を以て韓国を圧迫して
竜岩浦租借契約を結ばせた。ポート・ニコラスとロシア風に改称するなど、竜岩浦占領の既成事実化を着々と進めた

蔵相ウィッテは回想記
日本人が極度に我々に反抗するようになったのは極めて自然の成行きと云はねばならぬ
支那は全然ロシアを信用しなくなった。日本も同じであった。

304:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/21 22:12:46.61 Atlon48U0.net
英国の地理学者兼地図製作者、アーロン・アロースミスが1811年に作成した「日本、クリル(千島)列島」。
択捉島以南の北方四島が北海道と同じ青色で日本領とされている(英国立公文書館所蔵

地理学者ジェームズ・ワイルドが1840年作成の「日本、クリル(千島)列島」地図。
得撫島までが北海道と同じ赤色で描かれ、北方四島と得撫島までが日本領とされている(英国立公文書館所蔵

英外務省の公式文書として保管。覇権国として「世界標準」を
設定していた大英帝国が、北方四島を日本領と定めた1855年の日露和親条約以前に日本領と認定
いずれの地図にも、北方四島近くに「Providence」との表記があり、プロビデンス号で1796年に北海道に上陸し、
翌年、北海道西岸を測量した英海軍士官、ウィリアム・ブロートンの探検結果を反映したとみられる。

ただ両地図には、
択捉島に「or Itrup of Russians(またはロシア人のエトロフ島)」、
ウルップ島に「or Urup of Russians(またはロシア人のウルップ島)」
と併記し、露側の主張に一定の配慮を示した形跡もある

当時のロシアも同地図を世界標準と認識していた可能性がある。
アロースミスの地図を日本は04(文化元)年に長崎に来航した露通商使節レザノフから入手。
天文方(天文地理学者)だった高橋景保が1807(文化4)年に世界地図作製の幕命を受け、
アロースミスの世界地図を原図として16(文化13)年に両半球世界図「新訂万国全図」を完成させた。

305:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/21 22:27:38.00 Atlon48U0.net
1937年7月7日、盧溝橋事件。7月11日20:00の『松井-秦徳純・停戦協定』で終了しています。
盧溝橋事件があったからといって、上海共同租界を攻撃していいということにはなりません。
上海共同租界は日本領ではありませんし、日本の専管租界でも日本の租借地でもありませんでした。
上海共同租界は国際的な共同租界であり、そのなかに日本人が住み、比較的、日本人が多く住んでいた日本人町もあったということです。
日本人町には日本人だけでなく欧米人も中国人も住んでいました。
上海共同租界の国会にあたる参事会14人の構成は、イギリス人5人、アメリカ人2人、日本人2人、中国人5人でした。

8月13日、第二次上海事変。
蒋介石軍)3万人が「1932年の上海休戦協定」に違反して協定線内に侵入し、上海共同租界の日本人居留区域を包囲し、
条約による合法居留の日本人町に対して武力テロ攻撃をしてきました。

中国には条約で欧米人・欧米10ヵ国軍もいたのに、中国は、同じく条約でいた日本人・日本軍だけを攻撃してきました。
日本側は中国側に何度も和平を打診していたのですが、
アメリカが中国(蒋介石)に資金・武器を支援し続けていたので、蒋介石は日本からの和平提案を拒否し続けました。
アメリカが蒋介石に武器輸送していた援蒋ルート(蒋介石支援ルート)を、
日本が仏印と条約を結んで日本軍が合法的に仏印に進駐して援蒋ルートを遮断
するとアメリカは、合法側・被害者側の日本に対しては石油禁輸などの経済制裁を仕掛け、
中国大陸から日本だけ出て行けと、不当な事を言っていました。
日本は石油などの資源がないと国として立ち行かなくなるので、
蘭印の石油を武力で確保する決断をし、その前にハワイのアメリカ艦隊が来るのを遅らせるために真珠湾攻撃をして日米戦争となりました。

蒋介石は重慶に逃げました。
日本軍は地上軍による重慶攻略を計画しましたが、重慶が天然の要塞の地であることや兵站の問題もあり、
即時攻略は困難であるという結論に達し、重慶爆撃を行ないました

306:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/21 22:57:23.80 Atlon48U0.net
日本領事が「1932年の上海休戦協定」の締約国である米英仏伊などで組織する
協定共同委員会を招集し、蒋介石軍の撤退を要求する共同抗議、
および何らかの制裁措置を講ずるよう提案を行ないましたが英米仏伊は、まったく取り上げようとしませんでした。

蒋介石軍に注意を喚起するどころか、イギリス人警官などはブロードウェイ・マンションに展望台を設置し蒋介石軍に日本軍陣地までの着弾距離を教えたり、
蒋介石軍に電話で戦況を伝えたり、貯蔵されている物資を蒋介石軍に提供するという、上海共同租界の治安維持義務に反する行為をしました。

蒋介石軍の爆撃機が上海共同租界内を無差別爆撃して日本人だけでなく、欧米人や中国人を含む3000人もの民間人が犠牲になっているにも関わらず、
米英伊軍は蒋介石軍と戦おうとはせず、日本軍だけが蒋介石軍と戦い、日本軍の戦闘機も出撃して戦いました。
英米伊軍は上海共同租界内の治安を維持する立場にありながら、
その任務を怠り、自国民にも多くの犠牲者を出し、多くの建物にも甚大な被害を出してしまったことは、
英米伊の自国民に対する背信行為でもあり、上海共同租界内に住んでいた多くの民間人に対する背信行為です

蒋介石軍が、あきらかに不法な侵略戦争を仕掛けてきたのだから、その蒋介石に資金・武器支援するアメリカの行為も、
当時の日本から見て主観的に、「蒋介石の不法行為を支援するアメリカの行為は蒋介石軍と一体となった後方支援の不法行為であるし、
合法的に自衛している日本を経済制裁して合法行為の阻害をする行為も不法行為である。」
と、みなして問題ありません。
日本から見れば当時のアメリカこそ「テロ支援国家」

307:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/21 23:56:32.33 Atlon48U0.net
日本はあくまでも軍政目標を狙った攻撃であり、市民を狙った攻撃ではない。
一方的に日本を断罪した東京裁判ですら、重慶爆撃は起訴対象には入っていないのである。
ちなみに、訴追されているのは、南京・広東・漢口への攻撃に関してのみ。
そして8件ほどの事件が証拠として提出されただけで、重慶は対象外であった。

超高空から軍需工場等を狙った爆撃は命中精度が低い。
平均して5%くらいの命中率だったようである。
そこで軍事施設・工場などにこだわらず、都市破壊も行うように示唆するが、
国際法違反になると考えて、従おうとしなかったという
そして更迭され、ルメイが兵団長となったのである

重慶を根拠地とした爆撃機による中国内の日本軍基地
12月18日漢口に対して3時間に亘る十数回の波状攻撃でその結果、漢口は灰燼に帰した
この無差別攻撃こそは、住民を「結果的に巻き込んだ」いわゆる無差別攻撃から、
住民を根こそぎに殺害する「民間人をターゲットとした爆撃」への転換点であった。
そして、この「実験」の大成功に味を占めた米軍は、これを日本においてより大規模に実行することを考えたのである。

308:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/22 11:28:14.08 4ljt9F1u0.net
てんしょたい

「篆書体を日本のパスポートの文字として使うのは適切なのか?
明らかに秦代の小篆なのに、日本独自の文字だと主張するのか?」

下にアルファベットもありまして…わかりますか?別に自分の国の文字だと主張していないんです。
素晴らしい他国の文化を取り入れ、
進化発展させることが好きな民族ですので、敬意を持って使用させていただいております。

中華人民共和国は文化大革命で「四旧」を破壊し、篆書を含む古典文化を自ら否定した。
もはや正統な継承者ではなく、文化を断絶させた政権に過ぎない。

秦一族は
賀茂氏(鴨氏)
松尾氏(松尾大社)
深草(秦

309:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/22 13:53:47.73 4ljt9F1u0.net
4世紀の後半頃、現在のアフガニスタン東部のクンドゥース地方ヒンドゥークシュ山脈の北麓の遊牧民族で、
人種的にはイラン系らしいが、王族はトルコ系とも言われる。
次第に勢力を伸ばしバクトリアに進出しイランのササン朝ペルシアに侵攻し、圧迫した。
北インドではグプタ朝を圧迫し、滅亡した
6世紀の中頃、東方のモンゴル高原から勢力を伸ばし中央アジアに進出してきたトルコ系の突厥と、
西方のササン朝ペルシアによって挟撃され、滅亡

310:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/22 15:04:24.56 4ljt9F1u0.net
1944年、ソ連は新疆ウイグル自治区で、東チュルキスタン共和国を設立し、
新疆を第二の外モンゴルに変えようとした。 ソ連将校の指揮の下、漢族を虐殺

311:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/22 16:48:09.68 4ljt9F1u0.net
独ソ戦勃発後、スターリンは中国に物資と武器を支援し、中国が日本軍を防ぐことで、自国が二正面戦争に巻き込まれるのを防ごうとしていました
盧溝橋事件が勃発すると、スターリンは戦術を変更し、中国が対日戦に忙殺されて対外的な配慮ができないことを利用して、
ウラジオストク、ウスリー、ハバロフスク、ブラゴヴェシチェンスクなどで中国原住民の組織的な虐殺を行いました。

中国人は刑務所に行き、ほとんどが強制収容所で拷問を受けて殺され、少数は完全に殺されました。

2009年12月、ウラジオストク近郊で、APEC2012のための道路整備作業員が1万人以上の大量の死体を発見しました。
2010年5月、ロシア側は再びウラジオストク近郊を発掘調査し、合計約480人の遺体を発掘しました。
彼らは例外なく全員ひざまずいて後頭部に銃を撃ちその弾痕はすべて1930年代のソ連の軍備を示すものでした。

312:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/22 17:20:09.52 4ljt9F1u0.net
満州事変に関する写真集の刊行はそれほど多くはなく、昭和九年までに刊行された書籍
では十四点が確認できるだけなのだが、そのうちの四割以上の出版物がGHQによって焚書処分されている
GHQがどのような当時の記録を戦後の日本人に教えたくなかったが見えて来ると思う。

満州事変にかかわった本庄繁、板垣征四郎、石原莞爾らが他界した後
(1956年)満鉄爆破は支那軍ではなく関東軍の自作自演であるという当時東大生であった秦郁彦が書いた

313:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/22 17:58:36.51 4ljt9F1u0.net
過去二十年以上にわたって、支那はその国民に災厄をもたらしたところの一の革命時代を経過して来た。
数千万の人民が共殺的内乱、暴政、匪賊、飢饉ならびに洪水のために、
その生命を失ってきた。数千万の人民は惨苦と絶望の底に投ぜられた。
共産軍は南京政府の統制下にある領域よりもさらに広大な地域にわたって荒れ狂い、支那全土は今や全く混乱の状態である

久しく支那は独立国としての国際的義務を履行しておらず、日本は支那の最も近き隣国として、この点における最大の被害者であった。

旧属領に対して、支那は今や何の統制権も有していない。たとえばトルキスタンは支那本土との接触から完全に切り離され、
外蒙古は数年前ソヴィエト連邦の一部となった。ただ満洲のみが、昨年まで支那の一部として残った。
それも有名無実の支那主権の下に於いて、若干の接触と連帯とを保っていたという程度に過ぎない。

今日の南京政府は十五省のうち四省にも足らざる省の政務を統括しているに過ぎない

問題の核心、現下最大の問題は支那の無政府状態という点にあることを発見されるであろう。
しかしながらこの点に関して諸卿は何ら対策策を提議されておらぬ。満州問題の如きは単に問題の一局面、否むしろ問題の一結果に過ぎない。
満州問題の解決には、かほどまでの熱心を持たれるにもかかわらず、紛議全体の根底に横たわるところの大問題については、
諸卿はこれを全く看過しておられるのである。いったいこの点は如何様に処理される御意向であるか?

我々の希望は、我々の力の及ぶ限り支那を援助せんとするにある。この点に於いて我々は真摯である。我々の好むと否とにかかわらず、これは我々が負うべき義務である

満洲国の自立を援けんとしつつある現在の我々の努力は、やがては支那の援助者たらんとする日本の願望と義務を実現する契機となり、
これによって東亜全土を通じ平和の確立に成功するに至るべきことを余は確信するものである。

314:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/22 19:53:09.92 4ljt9F1u0.net
外務省Q6は昔「#南京大虐殺 に対して」だったのを日本政府が大虐殺を認めてると誤解を呼ぶので、
数年前わざわざ「#南京事件 に対して」に訂正、少なくとも日本政府は南京大虐殺を認めてない

315:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/22 22:01:43.08 4ljt9F1u0.net
アメリカで唱えたスローガンに“パール・ハーバーを忘れるな”と共に“バターン死の行進を忘れるな”があったという
アメリカ人約一万五百人、フィリピン人七万四千八百人)
アメリカ人千二百人、フィリピン人一万六千人を死

かれこれ三ヵ月半も、バタアンの山中にひそんでいたため
捕虜がもともとマラリアなどに罹っていたことが最大の要因であった。
捕虜は水筒だけを持って歩いたが、日本軍兵士は60kg以上の荷物を持って一緒に歩いた。
できればトラックで輸送すべきであったろう。
しかし貧弱な装備の日本軍にそれだけのトラックのあるはずもなかった

所長通達は決まって、「バターン半島で日本軍は、×××××のことをしたが、われわれはそういうやり方はしない」という前置きではじまったが
新手の虐待法であったものと考えられる

米軍が標高二千三百二十メートルの高所で武装解除を行った理由の一つは、カバヤンの急坂を登らせて疲れさせることにあった。
そしてもう一つの理由はボントック道55K地点からバギオまで六十キロになることにあった。
その間を行進させて、「バターン死の行進」のお返しをすることにあったのだ。
(日本軍がバターンで、水攻めを行ったという記録は残っていない)
帽子や水筒を取り上げられ
熱帯でも高山になると、夜は冷えるが、毛布は没収されていたので、そのまま眠るほかなかった。
「体を横にするな。体温を地面に奪われて死んでしまうぞ!」と誰かが大声で注意してくれたので、座ったまま膝をかかえて眠った。

マッカーサーの命により、既に二万人の捕虜墓地を用意していた米軍側にとって、予想外に少ない数であったと推定される

キャンプの一郭に千人程の朝鮮人がおり、特別待遇を受けていたが、彼らは時々新しい米兵服に身をかため柵外へ出て行った
なお朝鮮人でも正規の日本兵として階級を与えられていた人がおり、そういう人達は収容所でも日本兵と同じ扱いを受けていたようだ
我々のキャンプにいた朝鮮人は準兵士(使役兵)で階級を与えられなかった人達だったのかもしれない。
彼らは毎朝、点呼の後で、大声で歌を歌っていたが、それが「朝鮮独立の歌」であったことも、後になって知った

316:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/22 22:36:49.83 4ljt9F1u0.net
九月二十七日にマッカーサーと昭和天皇の会見が行われ、十月十六日に次のようなマッカーサー声明が発表された。
きょう日本全国にわたって、日本軍は復員を完了し、もはや軍隊としては存在しなくなった
未だ比島からは一兵も復員させていない時期に、復員の完了をうたっているのである。
なぜマッカーサーがそんな大嘘をつく必要があったのかと言えば、国際社会を欺くためであったと私は思う。
なかんずく国際赤十字社などの目をくらますためであったと思う。
カンルバン収容所で捕虜虐殺を進行させつつあったマッカーサーにとって、国際赤十字社などの目が最も気になった

二万人墓地の早期完成を督励しつづけた

日本人捕虜)の墓と分かってからも、「さすがはアメリカだ。元敵兵のためにこんな立派な墓地を造ってくれて」という気持ちが湧いたのも偽らない事実であった。
 だが、その数がかっきり二万であると聞いたとたんに、そういう感謝めいた気持ちは消し飛んでしまった。
これは意図して計画的に造られた墓地だという思いを強く持ったのである

平均五年間シベリア抑留の抑留者総数約五十六万人、死亡者数は約六万人

投降者の数がフィリピンで二十万人
二万柱を埋葬するのに二カ月しかかからなかった。重労働と飢餓作戦がいかに苛烈なものであったかを物語る数字と言えよう。

317:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/23 00:02:39.09 EIkG8O8s0.net
『紫禁城の黄昏』が、極東軍事裁判に証拠書類として採用されていたら、あのような裁判は成立しなかったであろう。

満洲事変後のアメリカ・イギリスの対日政策が根本から間違っているということを、動かしがたい証拠を以って言及しているのである。
この書が決定的に主張していることを一言でいえば、「満洲は絶対シナではない」という点である。

ジョンストンは次のように書いている。
二十世紀初頭の満洲は実質的に、完全にロシアに占領されていた。清朝はロシアを追い払うために何もしなかった
日本はロシアの植民地になりかけていた満洲を助けた。そこへ清朝から皇帝が帰ってきた。それを日本が助けて、一体何が悪いかと
ジョンストンのこの本には、溥儀が喜んで序文を寄せている。
溥儀は東京裁判で、序文は自分が書いたものではないと供述した。

武器や資金の支援をしていたのは
アメリカ(→張学良や中国国民党を支援)や、
ロシア(→共産パルチザンを支援)でした。
しかし日本政府は何ら有効な対策を打とうとせず、「嫌なら帰って来ればいい」という態度だったのです
警察行動である満州事変が勃発したものです。

318:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/23 00:39:45.54 EIkG8O8s0.net
溥儀が1924年紫禁城を追われ天津の日本公使館に逃げ込んできたのは家庭教師であった著者の手続きによるものであった。 
中国は日本が溥儀を拉致して満州国という傀儡国家を作る謀略と国内外に喧伝した
対華21ヵ条要求は清国との国際条約の順守を中華民国に求めたものであったが、条約締結と同時に破棄したのは袁世凱である。
この条約を帝国主義として日本を非難したのは米国である。中国への領土的野心のなかった日本にそれがありと糾弾したのは欧米である。
欧米こそが中国の領土を分割、統治していったのである。

中共が批判するように,「日本政府と関東軍が計画的に主導した傀儡政権で,満洲の民衆に無関係
な政府であり,溥儀はそれを利用した売国奴である。」ということはない。
 中国内の状況(6章~)は,1911年以降混乱に混乱を重ね,共和国(中華民国)政体による統治
は多くの国民にとって失望の極みであり,力のある安定した政権(君主制復活も含む)を求める声が多かった(16章)

319:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/23 01:10:02.46 EIkG8O8s0.net
諸勢力が分裂し、一体感の欠如の原因は、シナ国民が国家を基礎とは考えず、
家族や地方を基礎として考える傾向にあることを挙げている。
この混乱の中、1922年7 月、張作霖は満洲の独立を宣言した。

条約を一方的に破棄する革命外交

満洲を、漢民族が多数民族というだけでシナ本土の一部とする委員会の主張は、
まさに、漢民族による民族侵略( 現在のウイグル、チベットと同じ) を認めたことになる。

調査団が置かれた困難と「報告書」が持つ限界が告白されている。
「問題の複雑性」の件で報告書はこう述べている。
問題は極度に複雑だから、一切の事実とその歴史的背景について十分な知識を持ったものだけが、
この問題に関して決定的な意見を表明する資格があるべきと言うべきである。
この紛争は一国が他の一国を武力によって侵略したと言うような単純な性質のものではなく、
その故に双方の軍事行動の合法性・正当性についても判断することは容易ではない。
原因と結果が錯綜した、収拾がつかない状態にあるとしている。

最も苦悩しているのは、我々ではなく先に近代化を成し遂げた隣国日本であると報告している

シナの混乱を生む原因の一つに教育を挙げていて、彼らの「国」とは家族とそれを支配するリーダーの集団であるとし、
その故に愛国心教育は「概念としての国家」から生まれるのではなく、敵を憎むことで培われていて、彼らが必要以上に外国人を憎むのはそのせいであり、
その故に諸外国の権益は常に危険にさらされていて、暴動も収まらないのだとしている。

松岡洋右の「十字架演説」が実際には満場の喝采を浴び、英国やフランスの代表がわざわざ席を立って松岡に握手を求め、激賞
(三好徹:「松岡洋右 夕日と怒濤 」、西尾幹二:「GHQ 焚書図書開封9」
そもそもその演説(1932年12月8日)は「連盟脱退」のそれではなかった。実際の採決拒否演説は翌年2月24日のことであり、
かつ松岡が自ら「脱退」を口にしたわけではない。彼自身は脱退反対の意見を政府に具申したが容れられず、
後者の訓電に従って連盟総会議場から退出したのであった

320:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/23 01:17:49.53 EIkG8O8s0.net
名演説によってイギリスから日本の立場を一部容認するような方策が出された。つまり勧告書ではなく議長宣言とすることで強制力をそぎ、
日本の連盟脱退を防ぎ(各国は日本の脱退は望まず)、満州の現状も維持できる方策だった。
しかし松岡がこの妙案を伝えたのが、脱退派の内田康哉(やすや)外相で、内田は西園寺公望(きんもち)元老の曖昧な返事を脱退だと都合よく解釈して、イギリスからの方策を拒否する。
そうなれば連盟は勧告書を出さざるを得ず、勧告書が出れば日本(日本陸軍)は思惑通り国際連盟を脱退できる。

321:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/23 01:31:55.89 EIkG8O8s0.net
先輩達は後輩の食事代を奢ったりすることも、二十何年間によく見かける。これは恐らく、日本人の代々伝承の文化だろう。
この先輩と後輩との関係は日本だけの文化だ。欧米からの留学生もよく来る。彼らは先輩、後輩と関係なく、自分の分を自分で、支払う。
私は中国出身だから、中国では、部活動の文化がないので、先輩と後輩との食事会もあんまりない。例えば、有っても、上下関係の社会だから、後輩は先輩の為に支払うのだ。
と言っても、中国人の友達とか、同級生とか、時々に集まって、食事会をやるが、奢ったり、奢られたりすることもある。中国人の中にも助け合いも幾らかがある。この場合に、
彼らは、私とあなたとの関係で、お互いの好意を処理する。私もそうだった。
しかし、日本人は違う。私の子供はアメリカで留学している。いろいろな困ったことがあって、先輩の日本人からいろんなことを手伝ってくれている。
先輩にお礼をするけど、大体に、「そんなことをしなくていい、また困った後輩が助けられるように」と言われる。日本人は次に来る人達に、好意をバトンタッチする。中国人のように、私とあなたとの関係で、お互いの好意を処理しない

322:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/23 13:15:51.58 EIkG8O8s0.net
ベンガル飢饉:1943年にイギリスのチャーチルにより意図的に引き起こされた大飢饉。300万人が餓死した。
①ミャンマーを日本軍が占領したため、イギリスは市場の食糧を強制徴用して食糧難になった。
②日本軍の手に渡ることを恐れ、インフラや輸送船、牛車などを破壊した。
③オーストラリア等からの食料支援をチャーチルは全て断った。

ガンジス河流域という世界史で有数の穀倉地帯なのに
茶とか麻とか阿片とかの商品作物しか栽培させないようにしてた
イギリスによるインド支配100年間で、約3000万人が意図的な飢饉で餓死した

こいつらが裁かれてないのはただただ現在も覇権を握ってるってだけだから
イギリスがインディアンを虐殺して作った国がアメリカ
イギリスがイヌイットを虐殺して作った国がカナダ
イギリスがアボリジニを虐殺して作った国がオーストラリア

323:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/23 15:03:58.84 EIkG8O8s0.net
南京大虐殺が既にその根拠が破綻しているのは、
1985年に阿羅健一氏が
東京裁判提出証拠とされた崇善堂の埋葬記録が偽物であることを判明したからだ。
更に、当時の戦時国際法の観点からも、それが犯罪を構成しえない

戦後、石川達三(『生きてゐる兵隊』の作者)は二度ほど読売新聞のインタビューを受け、遅れて南京に入ったため、
虐殺自体は見ていないものの、南京事件について聞いたこと、
その余燼や町なかに死体がゴロゴロ転がっているのを見たことを証言している

324:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/23 15:10:25.28 EIkG8O8s0.net
抗日戦争当時、紫禁城の文化財は紫禁城には100万点以上が残っていた
ヨーロッパ、アメリカ、日本の博物館に展示されている中国の文化財はすべてひったくられたといつも言われています
失われた数万点の中国文化財のほとんどは、私たち中国人自身が盗んで売ったり、通常のルートで売買されたりしています。

325:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/23 16:12:42.23 EIkG8O8s0.net
日本軍が到着する直前に蔣介石が逃走したので城内は混乱と無政府状態に陥った。中国兵は命令に反抗し、匪賊と化し、放火や略奪で城内は地獄のようだった。
揚子江付近に避難していた民衆は、日本軍によってようやく解放された。

アメリカの日本語新聞が南京安全区で中国人の集団が日本軍通訳の腕章を偽造し、
日本軍になりすまし、強盗、暴行の悪事の限りを尽くし、総額5万元の荒稼ぎをしていたことを在南京憲兵隊が摘発し、
全員を逮捕したとの同盟通信の配信を報道しています

南京の安全区に逃亡中国兵によって隠された中国軍の武器弾薬が日本軍により摘発されていますが、
戦車を含む武器弾薬がトラック50台分、便衣は2200着分であった記録

326:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/23 18:00:14.29 EIkG8O8s0.net
要求は14ヵ条で、第5号7ヵ条は希望条項
最終的に中国側に要求したのは約16ヵ条

漢冶萍公司を設立したのは1896年(明治29年)、日清戦争の翌年である。
同年、日本は八幡製鉄を設立したが鉄鉱に乏しい日本は1899年(明治32年)、互いに同量の鉄鉱石輸入と石炭輸出の契約を同公司と結んだ。
義和団事件後、ドイツが日本の権益の妨害を企てたため、
1904年(明治37年)、我国は公司と300万円の借款契約を結び、その担保とされた大冶鉄山は以後60年間は他国に売却しない事を取り決めた。
日露戦争中の厖大な鉄鉱需要はこれによって賄われたのである。
1911年、辛亥革命が起こると、同公司は革命軍に没収されようとしたため、
盛宣懐は200万元で没収を免れようとし、その金額の調達を日本に交渉したので、
日本はその条件として日支合弁を提議して漢冶萍公司日支合弁仮契約が結ばれた。
決して唐突に新たな権益を求めた訳ではなかった

中国側が「21ヵ条」の内容を、はなはだしく歪曲誇張して内外に喧伝したことが、不必要な誤解を招いた

日本の要求とは全く違う事を捏造して列挙していた。
このような虚偽歪曲の宣伝が、さらに問題を悪化させた。

多少とも圧力をかけたことを口実として条約を無効にできるのなら、
世界に現存する条約の大部分は即刻無効となるだろう。
例えば日清戦争後の遼東還付条約は、まさしく三国干渉によるものである
力でドイツに押しつけられたヴェルサイユ条約も、
原爆投下を背景に日本に強要されたポツダム宣言も無効になるはずだ。]

中国の論理の独善性は明白である。
第一、日本は中国の自由意思を束縛したこともなく、4ヵ月にも及ぶ外交交渉の結果成立した条約ではないか。

驚くべきことは、中国が条約調印直後の1915年6月に「懲弁国賊条令」なるものを公布したことだ。
これは日本人に土地を貸した者は国賊として公開裁判なしに死刑にするという峻厳を極めた法令で、勿論、日本人の土地取得得妨害が目的である。
同時に中国は南満洲の官吏に「商租地畝須知」なる秘密の手引書を頒布して、日本人に対する土地商租の妨害を命じた。
このため、日華条約で確定したはずの南満洲における日本人の土地商租権は、条約調印と同時に事実上、空文と化したのである。
国際条約調印と同時に、政府が法令を以てその実施を妨害するとは世界に類を見ない背信行為というほかない。
この結果、満蒙で日本が獲得した条約上の諸権利は、ことごとく中国側に侵犯され、満洲における日華関係を極度に緊迫悪化させ

1922年のワシントン会議で、日本は中国に山東省を返還し、満蒙に於ける鉄道と顧問傭聘に関する優先権を放棄した。
さらに「他日の交渉に譲る」ことになっていた第5号希望条項も全面的に撤回した。
条約として残存していたのは、わずか10ヵ条

327:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/23 19:19:47.43 EIkG8O8s0.net
189蜀
革命政府にして一旦樹立する場合に至らば、清朝政府は必ず満州に走り、ロシアの後援によって国命を維持せんとすべし。
これに対し、新政府は日本と同盟してロシアを打たざるべからず。
即ちロシアとの衝突は何れにするも免かるべからざる所にして、革命は一日も早きを有利とすべし。
元来吾人の目的は滅満興漢*にあるものなれば、革命成就の暁には、満蒙、シベリアの如きは日本に付与するも可なり

孫文が、日露戦中に米国で発表文
我々は故意に満州政府といって支那政府とはいわない。支那人は現在彼ら自身の政府を持っていない。もし支那政府なる言葉が支那の現政府に用いられるならそれは誤謬である。
支那の事情に通じていない人々には怪訝に思えるかも知れない。
しかしこれは事実であり歴史的事実である。読者にこのことを信じさせるためには満州王朝の出来た由来を略述すれば足りる。
満州人は支那人と接触する前にはアムール地方の原野に放浪する野蛮な遊牧人種であった。彼らはしばしば国境地方の平和な支那住民を侵(おそ)い掠奪した。明朝末期に支那には一大内乱があり、
この絶好な機会に乗じて彼らは突然南下し、ローマ帝国を北方蛮族が侵ったと同様な方法で北京を占領した。これは一六四四年のことである。

328:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/23 20:01:37.30 EIkG8O8s0.net
満州事変が起こるとともに、我が皇軍は、電光石火の勢いで、北大営を始め、奉天城を占領し・・・、奉天城の首脳部が去ってしまうと、奉天の町は、混乱を来たすおそれが、十分にありました。
 そこで、我が軍部の方では、色々と斡旋して、十九日、奉天臨時市政施行の布告を発し、特務機関の土肥原大佐が、臨時奉天市長となって奉天の治安に当たられたのでありました。
ところが、十一月七日になって、奉天市政会所が出来ましたが、これと共に、趙欣伯が、正式に市長となりました。
また十一月一日には、奉天省西北部の洮遼鎮守使張海鵬(ちょうかいほう)も独立を宣言しましたし、また、・・・張作相の参謀長熈洽(きこう)は、九月二条六日に、吉林の独立を、宣言して居りました。
この外、東辺鎮守使の干蕋山(かんじうさん)も、東省特別区行政長官張景惠(ちょうけいけい)は、ハルピンで、独立を宣言したのでありました。
 こうして、東三省は、ことごとく、支那から分離してしまいました。
今や、満州国民は、張氏父子二代の苛歛誅求に堪えかねて、張氏からはなれ、新しい政権を樹立しようとの機運が、向いて来たのでありました。そして、あちらにも、こちらにも
、軍閥打倒、建国促進の運動が起こってまいりました。そして二月中重ごろには、その運動が、次第に、表面化して来たのでありました。

張学良は、旧派長老の勧告も効かずに、満州の住民を圧迫して、出来るだけの富をしぼりとるため力をつくし、また、奉天票という不換紙幣を濫発し、新たに発行する毎に、以前使用のものは無価値となし、以て、経済界の攪乱に勉めました。
 その頃、張学良は、満州から、七千万円をしぼり取っていましたが、そのうち、六千四百万円は軍事費として用い、残りの六百万円をその他のすべての費用にあてられたのでした。
いわば、満州民は七千万円を課税として取られ、自分達のためには、わずかに、六百万円しか使ってもらえませんでした。
こういうわけですから、張学良が、一度、満州からその地位を奪われると、満州国民は非常に喜んで、早速、新政権の樹立を、心から希望したのでありました。
 かように、張学良は、内は国民から多くの富を搾取するとともに、外に対しては、隣邦を侮蔑し、条約を片っ端から破壊して、乱暴の限りをつくしました

329:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/24 01:28:09.42 6xV6Ugmg0.net
契丹国の宗教については最初は遊牧民族に特有な「シャ-マン」であったが「漢民族」を支配するようになってから「佛教」に帰依していった

契丹」が先のとおり「中国」の東北部からシベリアの沿海州から「中国」の中部、さらには遠く「中央アジア」の「イラン」にまで支配地を拡大したことから「契丹文字」や「佛教」を伝播して行った。
特に「中央アジア」では「イスラム教」が広く信じられていたが、ここに「佛教」を持ちこんだため「イスラム教」は徹底的に弾圧されて東方への伝播が阻止された。
「ウイグル」では830年ころには南部の「カシュガル」に「イスラム教」が伝わり「住民」がそれまで信じていた「佛教」から「イスラム教」に代ったが、
1132年に「契丹」(当時は「西遼」)この地を支配したことから再び「佛教」に回帰した。
「契丹」は1283年に「モンゴル帝国」に滅ぼされたが、
「ウイグル」の各地に残された「佛教徒」は頑強に<イスラム化>に抵抗したため「ウイグル」が完全にイスラム化したのは「トルファン」での1500年の中頃である。

330:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/24 02:22:49.29 6xV6Ugmg0.net
三国志」は「三国志演義」と区別するため、正史と呼ばれることもあります。
しかし、誤解してはいけないのは、この「正史」と言うのは正しい史実を指すのではなく、正当性を示す史書という意味である
それと、儒教の影響を受けていることも頭に入れておく必要があります。儒教の対外思想の本質は中華思想です。
中華(世界の中心)を支配する天子の徳を慕って「東夷・西戎・北狄・南蕃」といった四方の夷狄が朝貢するという、自国優位を説く考え方です

卑弥呼は「親魏倭王」という称号を贈られています。その証が有名な金印です
親魏○○王」の称号を送ったのは倭国の卑弥呼以外には大月氏国
「大月氏国」とは1世紀から3世紀頃の間、中央アジアから北インド地域を支配したガンダーラ美術で名高いイラン系のクシャーナ朝
なぜ、魏は倭国に対してこんな厚遇を与えたのでしょうか。

蜀は南西シルクロードを使って東南アジアの地域に蜀錦を輸出して外貨を稼いでいたため、これを遮断する目的もあって大月氏国クシャーナ朝を厚遇したのです

呉は、遼東半島や朝鮮半島に勢力を拡大していた公孫氏と手を結び、魏を挟み撃ちにする体制をとります。

魏が公孫氏を滅ぼそうとしている頃が倭国が初めて魏に使者を送ろうとしていた頃なのです。

倭国が狗奴国と戦争状態に入りますが、この時、魏は使者とともに魏の軍事権の象徴である黄幢を倭国に送っています。
これは魏が狗奴国の背後に呉がいると判断したからのようです

魏を軸にして見た場合、前半の蜀との戦いで蜀をけん制するために外交戦略として大月氏国(クシャーナ朝)と友好関係を結ぶ必要があり、
弱体化した蜀に代わって対抗してきた呉のけん制のため、その背後の海上にあるとされた倭国と友好関係を結ぶ必要があったのです。

331:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/24 12:48:09.51 6xV6Ugmg0.net
漢、後漢は濊族や韓族を抑えるため楽浪郡帯方郡を設置したが
遼東地方で有力となった公孫康が独立して燕王を称した。
後漢に代わった魏が将軍司馬を派遣して公孫氏を滅ぼし、238年に楽浪郡・帯方郡を支配した
邪馬台国の女王卑弥呼が帯方郡に使いをよこして魏に朝貢

当時、魏の朝鮮支配を脅かす存在として高句麗が台頭していたので、魏は邪馬台国の遣使を受け入れる必要があったものと思われる。

五胡十六国の激動
楽浪郡・帯方郡の滅亡、つまり漢民族による朝鮮半島支配の拠点の消滅
乗じて成長した高句麗

京観(けいかん)とは、中国において戦争で討ち取った敵兵をつみあげるなどして埋葬し塚を作り、戦勝の記念碑とする風習
時には10万人規模で兵を殺し、京観を作ったとされる
討ち取った敵兵の数を誇るためだとも、太平を保つことの大切さへの戒めともいわれている
日本では寺院を建立したり首塚や耳塚などの類が一般的

332:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/24 15:26:13.29 6xV6Ugmg0.net
加藤清正が蔚山城の篭城戦で飢えた体験を持って熊本城を築城した時は篭城戦に備えて城に非常食を置き、
具体的には、壁に塗り込まれた「かんぴょう」、畳の芯にサトイモの茎、城内に植えられた「イチョウの木」など
井戸の確保をして居たので、西南戦争の時に日本陸軍は熊本城を本拠地にした熊本鎮台は城内の非常食を活用して政府軍の援軍まで持ちこたえた

灰汁巻きは、もち米を灰汁で炊くことで独特の風味と食感を持つ保存が効く物で朝鮮出兵

大陸特有のやたら強い義勇兵が出てきて面白い鎖鎌で無双する農民とか

猫神神社」
島津義弘
七匹の猫たちも連れて行ったのだ
戦の合間に猫たちに触れることで心を穏やかにし、冷静な判断を下す力を取り戻していた。
猫の瞳の動きを観察することで、昼夜や天候の変化を察知する

。猫の招きで落雷に助けられ命拾いしたという豪徳寺に残る「井伊直孝」。
黒猫に招かれて命からがら自性院に辿り着いたという「太田道灌」

333:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/24 17:50:30.37 6xV6Ugmg0.net
創氏改名とは何か?これは創氏の部分と改名の部分に分かれる
戸籍をつくるわけだが、朝鮮人には苗字がなかった。
朴とか金とかは苗字ではなくカバネといい、結婚しても変わらない。日本も明治4年までは源平藤橘があり、結婚しても変わらない
朝鮮人の「カバネ」を「苗字として扱う」という政策がされた。
つまり、金さんと朴さんが結婚したら、金または朴で家族を統一しなさい、というものだ。
これに朝鮮人は大反対!妻と家族になるなんて許されない!妻は家族じゃない!!
でもこれから日本人になったのだから妻は家族だから同じ名称になりましょうと日本人同様に扱ったわけだ。
これが創氏。
改名は、日本名を勝手に名乗る人が沢山いたため、裁判所に申し立てすれば日本名に変えることができるようにしたものだ。これは任意。
だから、当時改名した朝鮮人の名刺を見ると、日本名と朝鮮名が併記してある。
もちろん任意だから、朝鮮名のまま活躍した人は沢山いた。

これらは戦後、「創氏改名を強制された」という寓話が作られつつ、
なぜか通名を使い続けるという不思議な光景があった

334:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/24 20:48:37.22 6xV6Ugmg0.net
工藤平助の『赤蝦夷風説考』よりも詳しい情報は、ロシア人イジュヨから最上徳内が聴き取ったロシア情報

川路聖謨。
日本の会所ができているのはアニワ湾周辺だけで、それより奥地へは探険家が入った程度である。
長崎では北緯50度で分けるとの案を出したが、どこで分けるかの定見は無い。不毛の樺太を棄てても一向に差し障り無い。

1859年には、軍艦7隻を率いたムラヴィヨフ総督が来朝し、「樺太は大清帝国から奪った沿海州の属領である」

囚人の入植が多く、ロシア人と地元日本人との争いが絶えなかった。その措置を誤れば、日本は軍事力もなく、
北海道本土もロシアに奪取されると政府は考えるようになった。日本政府要人の黒田清隆は、
このまま行くと、北海道の防衛すら危ない、今は、北海道の開拓に力を注ぐべきであると考えた。

335:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/24 22:04:12.59 6xV6Ugmg0.net
徳川頼宣」(とくがわよりのぶ紀州徳川家の家祖
「これからいくらでも先陣に立つ機会はあります」となだめられると、徳川頼宣は「14歳が2度あるのか!」と激昂。
これに対し、父・徳川家康は「今の一言が槍[手柄]である」と、

藩訓「父母状「李梅渓りばいけいに命じて作成させた触れ書で、親孝行や法律を守ることの大切さが説かれています。

由井正雪の遺品から徳川頼宣の印章文書が発見され、徳川頼宣が計画に関与していたのではないかと騒動が起こります。

李真栄は朝鮮侵略(1592)の際、朝鮮義兵として戦い、捕られ捕虜になり、1593年15歳のとき日本に連行されてきた。
息子の梅渓に幼い頃から17歳になるまで儒学を教えたが、
朝鮮から連行されてきた経緯や故郷、祖先ことを伝えず逝ったのであった
和歌山市梅原)を与えられ、この地名から梅渓と称したという。

336:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/24 23:07:55.96 6xV6Ugmg0.net
778年)、日本の年号では、宝亀9年、日本からの遣唐使が26年ぶりに長安に赴きました。
一行は、正月に入京し、4月末迄長安に滞在し、帰国に際しては、在唐の留学生の他、清河と唐の婦人の間に生れた娘(喜娘)を伴います。
帰路の航海は、逆風に合い、多くの者が海に消えたものの、喜娘は、何とか父の故国の土を踏む事ができました。

日本国の舞姫11人」、777年の正月、渤海から貢物として、唐の朝廷に献上

渤海から唐の長安へ「移動」した「日本舞女十一人」新唐書』渤海伝

渤海国の謎 知られざる東アジアの古代王国
華麗な宮廷外交の展開
漢詩の応酬……海を渡った11人の舞姫

337:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/24 23:43:20.28 6xV6Ugmg0.net
帝国主義国家間の植民地分割協定の典型

日露戦争がロシアの脅威から日本ひいてはアジアを守る戦いだったというような議論は成り立たないことは明らかである。
むしろアジア解放を抑圧する側に廻ってしまった

日英同盟 インドにおけるイギリスの、朝鮮(大韓帝国)における日本の優越権
日露協約。満州は南北で分割、外モンゴルはロシア、韓国は日本の優先権を相互に認めた
桂=タフト協定(日本の韓国、アメリカのフィリピンにおける権益を相互承認
日仏協約では日本の台湾、満州南部、韓国と、フランスのインドシナ(ベトナムなど)での権益を相互に認め合う
ベトナムの民族運動への支援を停止したことにもあきらかである

協商とは Ententeの訳で、商業上の約束ということではなく、全般的に協力し合おうという協定

338:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/25 01:08:43.45 XpMI7RV30.net
満洲への進出を阻止されたロシアがインドに向うことを恐れた英国が、同盟の適用範囲をインドまで拡大したものであ
日英海軍に大西洋と太平洋から挟撃されるのではという米国の疑念を解消するために米国を日英同盟の対象外とした
この時点で日本が同盟の継続を希望したのは、中国の安定であり国際的孤立の回避であった。

)英国の対日不信と不満
日本はインド独立派の「巨悪な人物(中村屋のビバリー・チャンドラ・ボース)」を友好的に受け入れ、
イギリスの抗議や国外追放要求に対し日本政府の対応は消極的で非協力的である。
日本のアジア主義者のインド独立運動支援

「日本は本質的に侵略的な国家であり、日本は自分の将来に偉大な政治的未来があると信じている。
日本の教育や商業はドイツ式で、日本の組織や規律もドイツ式であり、このため日本人の性格も自然にドイツ式になっている。
日本が東洋のプロシャになるというのは決して誇張ではない。狂信的な愛国心、国家的侵略性、個人的残忍性を持ち偽りに満ち、
さらに日本は近隣諸国に日本独自の文化を押し付けることを道義的義務と考えている。日本の侵略的な野望とイギリスの適正な要求とを調和する余地はあるであろうか。
道義的に日英はあまりにも掛け離れている。このようにイギリスの理想と日本の野望が異なる以上、両国の間に共通の基盤を確立することは不可能である。
この日本の野望をわれわれが容認できないとすれば、日本の野望を武力で阻止する時がくることを決意しなければならないであろう。日英間に努力すべき共通の目的は存在しない。日英同盟は虚無の基盤の上に存在しているに過ぎず、
この同盟は人種的にも文化的にも異なる二つの国がもろい紙の上に書いた条項を綴じたものに過ぎない」。

339:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/25 01:20:35.79 XpMI7RV30.net
大陸国家はフランスやドイツ、ロシアの例を挙げるまでもなく、常に自らを世界の中心と考える傾向がある。特に中国はこの傾向が強く、自国文化への優越感から
周囲の民族を「東夷」、「西戒」、「南蛮」、「北狄」と位置付け、周囲の国々と対等の国際関係を維持したことはなかった。
中国は周囲の国々を「臣下の礼」をとる半独立国として、「華夷秩序」に基づく自国を中心とするピラミッド型の従属的関係しか認めなかった

中国人は自国文化に対する優越感から、優れた中国の文化を遅れた異民族に浸透させ、文化的に同化し、
中国的生活圏を拡大せることが中国人の使命であり、周辺の文化的に劣る異民族もこれを歓迎するはずと考えていたため、
近世に至るまで国境の概念がなく、中国が最初に国境を認めたのは1689年に締結されたネルチンクス条約であった。

大陸国家にとって国土の広さや資源の有無などは、国土防衛上のみならず、国家の生存発展のためにも不可欠であり、
第二次世界大戦前のドイツやソ連は自給自足を求めようと、他国を侵略した
海洋民族の社会体制や政治姿勢は、海洋が天然の城壁の役割を果たし、他国の侵略を受けることも少なく、さらに第三国の領土を経由することなく比較的自由に外国と交易し、
必要な物資や文化を導入してきたためか、国家としての社会システムや思想は開放的で、自由主義的となる傾向が強く、兵制は船を操るには特別の知識と体験を必要とするところから志願兵制度を取り、
海軍を重視する国が多い。また、海洋国は海上交通路を維持し制海権を握っていれば貿易によって国家の発展生存に必要な資源を取得することができるため、国際関係は相互に立場を認め平等視する水平的な関係である場合が多い。
 海洋国の利点の一つが安価大量の輸送力であり、海洋の存在する所はどこへでも自由に安価に多量の物資を運びえることから有無相通じる国際貿易や国際分業化を促進し、
海洋国家間を相互依存の関係としている。このため、海洋国家は世界的な協調体制や同盟関係を構築する傾向が強く、古来「海洋国は同盟国とともに戦う」と言われてきた。
 これに対して大陸国家は常に国境を挟んで隣国と臨戦態勢を維持し、侵略を受ければ多量の兵員を動員しなければならなかったため、徴兵制度を取る国が多く陸軍が重視されている。
このためか国家の性格は概して専制的であり閉鎖的で、その制度は一般に中央集権的で軍国主義的にならざるを得なかった。

340:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/25 02:27:26.22 XpMI7RV30.net
ドイツが英仏周辺および地中海での無制限潜水艦作戦を宣言し、地中海は輸送船団にとってさながら地獄の様相を呈していた

兵員を輸送する軍隊輸送船は敵潜水艦に最も狙われるため、その護衛任務は各国海軍から敬遠されがちだった
ドイツによる非道な無制限潜水艦作戦に対し、日本政府が積極的に派遣を決断したものであった

日英同盟の適用範囲はインドまでであるのに
日本は日露戦争では日英同盟の〝受益者〟だったが、第一次世界戦では日英同盟の〝与益者〟だったのだ。

341:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/25 10:54:48.16 XpMI7RV30.net
ドイツは憲法で共産党を禁止しています。
理由は共産主義はナチズム同様、民主主義に反するから
ドイツは共産党を禁止したが、その後共産党は復活したから、『ドイツが共産党を禁止したというのは間違いだ』」と言ってい来る人がいますが、
新しくできた共産党(DKP)はプロレタリア独裁を放棄したなんちゃって共産党

342:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/25 12:23:02.36 XpMI7RV30.net
無制限潜水艦作戦(むせいげんせんすいかんさくせん)

第一次世界大戦中ドイツの軍部の主張でとられた強硬策。中立国の商船をも含めていっさいの艦船を無差別に撃沈するというもので,
イギリスを海上封鎖してこれを半年内に降伏させる予定で1917年2月に開始された。しかし,所期の目的を達成できなかったばかりか,
中立国アメリカの世論をわき立たせ,ついに4月相手側に立って参戦させる結果を招いた

343:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/25 12:23:02.57 XpMI7RV30.net
無制限潜水艦作戦(むせいげんせんすいかんさくせん)

第一次世界大戦中ドイツの軍部の主張でとられた強硬策。中立国の商船をも含めていっさいの艦船を無差別に撃沈するというもので,
イギリスを海上封鎖してこれを半年内に降伏させる予定で1917年2月に開始された。しかし,所期の目的を達成できなかったばかりか,
中立国アメリカの世論をわき立たせ,ついに4月相手側に立って参戦させる結果を招いた

344:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/25 15:19:26.59 XpMI7RV30.net
昭和30年に児童向け『実録時代小説』シリーズの一冊として発表された本。しかし児童読物というより講談に近い。

柴錬痛快文庫第一弾と銘打たれた当作品。慶安の変を引き起こす軍学者・由井正雪の物語。
巻末の解説によれば「柴錬痛快文庫」
の初刊本は作者が作家生活の初期に書き下ろした児童向け作品を逐次刊行したものらしいです

345:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/25 15:31:17.98 XpMI7RV30.net
両班以外は歌を歌ってはいけない世界だったのに起源もくそもないんだよ。
似てるのは日本の演歌を真似てるんだからあたりまえよな。

社会学者の小林孝行 では音楽の事は判らないだろうな。
音楽ってのは音階から調べるんですよ、歌曲ってのはペンタトニック5音階なので、特徴的な音階が幾つかある。
鍵盤楽器の黒鍵だけ使うと中華音階、何でも沖縄民謡にしてしまう琉球音階とかね。
特徴的な音階も無く、小節も無く、何が韓国演歌だよ。台湾演歌は小節を受け継いでいます。

古賀政男が朝鮮人だとか、朝鮮の歌に影響を受けたとか言っているのは、明らかに妄想
古賀政男は日本人であり、帰国後明治大学に入学するが、彼が影響を受けたのは中山晋平であり田中穂積である。
演歌は7音階のうちの第4音(ファ)と第7音(シ)を抜いたヨナ抜き音階が多いが、
これは日本で最初にヨナ抜き音階のワルツを発表した(1902年)田中穂積の影響を受けている。

音階を持つ楽器が無いから、朝鮮音階だけ判らない。
北朝鮮の国歌が、思いっ切りヨナ抜き音階で大笑い。

演歌の由来は判っていてね、演説歌で正しいんだが。
歌詞が意味を持つのは浪花節由来、曲の方は民謡由来。
民謡≒労働歌 なのでリズムが一定

今だってアリランしかないから
五輪の引継ぎ式いろんなアレンジのアリランばっかり流してたよね

併合期以降に日本から伝わった音楽が、朝鮮半島の音楽のルーツとなるが、
それを知っている韓国人は「文化の起源を断定するのは難しい」とお茶を濁して、
知らない韓国人は「韓国音楽が日本の音楽のルーツだ」と主張します。

いつも思うんだけど何故逆に日本から入った可能性を考えないのだろう

極貧だった筈の朝鮮からウィーン留学した安益泰って人物が居ましてね。
そちらが主流になり消されてしまった日帝残滓。韓国愛国歌の作曲者ですよ~

346:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/25 15:38:16.60 XpMI7RV30.net
例外も散見されるが、演歌の要素にヨナ抜きペンタトニックがあり、基本が4拍子。
余りに当り前で日本人にはエスニック音階だと判らない。
演歌に分類されないが『上を向いて歩こう』(スキヤキ)はヨナ抜きペンタトニック。
アジアで大ヒットしたタコの『昴』もだな、他に「ニンジャリバンバン』。
だから曲風を聞いただけで日本を思い浮かべる

347:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/25 19:09:33.86 XpMI7RV30.net
日本では文化の連続性をちゃんと追えるし証明できる。
韓国では文化の連続性が無い(近年になって日本の真似をしただけ)。
それを認めたくないからいきなり起源の話をする

トロットは日本の演歌をパクって出来たものだからそりゃ似てるだろ

348:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/26 09:58:04.32 TBmJfLlC0.net
最終的に私は不合理な偏見を克服し、それ以来、決して振り返ることはない。

349:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/26 11:10:33.24 TBmJfLlC0.net
陳碧軍は法廷で、汪兆銘の反逆行為をきっぱりと否定しただけでなく、蒋介石を真っ向から非難した。彼女は、本格的な抗日戦争が始まる前に蒋介石が日本と共謀したこと、
そしてドイツ大使を通じて日本との和平仲介を試みた初期の試みについて詳細に説明した。
傍聴席は大騒ぎとなり、裁判長の孫紅林氏は即座に介入し、陳碧軍氏に対し、事件に関係のない事柄について発言しないよう警告した。

陳碧軍氏:「あなたは王氏が売国したと非難しています。王政権下の地域は、中国の占領地であると同時に日本の占領地でもありました。
王氏は領土を一寸たりとも譲り渡していません。それどころか、敵から権力を奪い取っただけです。
一体どこの国を売ることができたというのでしょうか?日本が広東省を攻撃した時、広州の高官たちは逃亡しました。彼らは領土防衛の義務を果たしたのでしょうか?

350:名無しさん@お腹いっぱい。
25/08/26 12:55:37.40 TBmJfLlC0.net
徳川夢聲(とくがわむせい、47歳)は「今日の戦果を聴き、ただ呆れる」と記し
、さらに翌9日には「あまり物凄い戦果であるのでピッタリ来ない。
日本海軍は魔法を使ったとしか思えない。いくら万歳を叫んでも追っつかない。万歳なんて言葉では物足りない」

長與善郎(ながよよしろう、53歳)は「生きているうちにまだこんな嬉しい、こんな痛快な、こんなめでたい日に遭えると思わなかった

武者小路実篤
愚かなのはルーズベルト、チャーチル、ハル長官たちである。日本を敵に廻す恐ろしさを英米の国民が知らないのは当然だが、
彼ら責任者がそれを知らなかったのは馬鹿すぎる」

小林秀雄(こばやしひでお、39歳)も語った、「戦争は思想のいろいろな無駄なものを一挙に無くしてくれた。
無駄なものがいろいろあればこそ無駄な口を利かねばならなかった」。

保田與重郎(
わが文化発揚の第一歩にして、絶対条件は開戦と共に行われたのである。剣をとるものは剣により、筆をとるものは筆によって
、今や攘夷の完遂を期するに何の停迷するところはない」

亀井勝一郎
即ち嘗(かつ)てペルリによって武力的に開国を迫られた我が国の、これこそ最初にして最大の苛烈極まる返答であり、復讐だったのである

横光利一
先祖を神だと信じた民族が勝ったのだ。自分は不思議以上のものを感じた。出るものが出たのだ。それはもっとも自然なことだ
自分がパリにいるとき、毎夜念じて伊勢の大廟を拝したことが、ついに顕れてしまったのである


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