26/08/01 20:20:58.69 sQaREFls.net
>>742-743
>>そういうことですね (^^
>いいえ。間違ってすらいないということです。
>間違ってすらいないものがあとから「結局正しい」とされることはあり得ません。
いま君は AIのカキコを 渕野先生の上に置いている
それ 君自身のハルシネーションだよ
1)君のAIさんは >>735『カントールの場合は、そもそも ・公理の一覧がなく、・推論規則も形式化されておらず、・「どのような集合形成を認めるか」も厳密には定義されていませんでした』
と宣うが
2)しかし、フレーゲは 1848年11月8日 - 1925年7月26日 URLリンク(en.wikipedia.org)
であったことを思い出そう
3)君のAIの言だと、フレーゲ以前の数学者たち オイラー、ガウス、アーベル、ガロア、リーマンなど
19世紀前半以前の数学は全部『間違ってすらいない』
『間違ってすらいないものがあとから「結局正しい」とされることはあり得ません』
となるよ。それアホでしょ(^^
(参考)
>>707 より
URLリンク(fuchino.ddo.jp)
カントルの精神の継承—無限集合の数学/
超数学理論としてのカントルの集合論のその後の発展と,その「数学」へのインパクト
渕野昌 2019
P4
集合論が背負わされることになった三番目の宿命は,—これは20世紀に入ってからのことになるのだが—集合論のパラドックス(antinomies) の発見とツェルメロらによる集合論の公理化による,パラドックスの回避,という19世紀から20 世紀初頭にかけての数学の展開から,「素朴集合論は間違っていた」という間違った風評が広まってしまったことであろう.実際には,カントルが集合論で得た結果には,このパラドックスと抵触するものは含まれておらず,カントル自身,ほとんど[Zermelo 1908] と同じとも言える精度での,パラドックスの回避についての理解を得ていたことが,デデキントやヒルベルトにあてた彼の書簡から見てとれる.
>>30より
<厳密だけが、数学ではない>
<数学と厳密>
あなたのまったく逆を、渕野先生が書いている
”厳密性を数学と取りちがえるという勘違い”
URLリンク(www.amazon.co.jp)
数とは何かそして何であるべきか デデキント 訳解説 渕野昌 筑摩書房2013
「数学的直観と数学の基礎付け 訳者による解説とあとがき」
P314
(抜粋)
数学の基礎付けの研究は,数学が厳密でありさえすればよい, という価値観を確立しようとしているものではない.
これは自明のことのようにも思えるが,厳密性を数学と取りちがえるという勘違いは,
たとえば数学教育などで蔓延している可能性もあるので,
ここに明言しておく必要があるように思える
多くの数学の研究者にとっては,数学は,記号列として記述された「死んだ」数学ではなく,
思考のプロセスとしての脳髄の生理現象そのものであろう
したがって,数学はその意味での実存として数学者の生の隣り合わせにあるもの,と意識されることになるだろう
そのような「生きた」「実存としての」(existentialな)数学で問題になるのは,
アイデアの飛翔をうながす(可能性を持つ)数学的直観」とよばれるもので,
略