24/09/01 14:44:39.67 xqhMXmb+.net
>>982
「数学は辛い」
「なんで数学なんてやっているんだろう」
「数学が好きかどうかも分からない」
「数学のモチベーションが無い」
「みんな楽しそうにモチベ溢れて数学・研究やっている、自分とは違う人種だ」
「こんな人間が数学研究者としてお金をもらっているのは駄目なことだ」
等の自動思考は、苦しかったときに常に頭の中にありました。
今では、数学との距離感は健全なものになってきており、
これらの考えに苦しむことはあまりありませんが、
それでも胸を張って「私は数学が好き」とは言えず、
自分が数学を好きかどうか分かりません。
モチベーションの波が激しく、ノッているときには好きかもしれませんが、
そうでなくモチベが無い時期(これがほとんどです!)にはとてもじゃないけど好きだとは言えません。
1096:132人目の素数さん
24/09/01 14:46:14.09 xqhMXmb+.net
>>983
しかし巷にあふれる研究職への宣伝を見ていると、数学の研究者というものは、どうやら数学や研究が好き・楽しんで研究をやる人がなるらしいのです。
(この点に関する特筆すべき例外は、ノーベル物理学賞受賞者の朝永振一郎で、
彼の「滞独日記(量子力学と私収録)」は、ドイツ留学中の彼の、
「なんで物理なんかやっているんだ」
「優秀な湯川に比べて私は」
「物理が辛くて自分が矮小で涙が出てくる」等、
私のことかと思うほど思考が重なり、よく言われる
「研究が好きで好きで仕方がない研究者像」
とは違う生の研究者像を描いており、博士時代から今に至るまでの心の支えになっています。
ぜひ読んでください。)
1097:132人目の素数さん
24/09/01 14:47:17.87 xqhMXmb+.net
>>984
よって、
「将来は不安定だしいろいろ辛いことも多いけど、数学が好きだから研究職を続ける」
という言葉を見ると、私は
「ならば私は数学が好きだと胸を張って言えないタイプの人間なので、
しかも不安定で辛いなら、研究職を続ける理由がないじゃん」
と思うわけです。
1098:132人目の素数さん
24/09/01 14:48:45.16 xqhMXmb+.net
>>985
ただしこの
「研究者は研究を好きで楽しんでいる・そうあるべきである」
というのは一つの偏った見方という面もあると思います。何故か
「私は数学が楽しくて数学者やっています!」
という人ばかりを観測して、そのたびに私は気が滅入って辛くなりますが、噂や聞いた話では
「数学は別にそこまで好きじゃないけど、仕事と割り切って数学をしている」
という数学者も存在はするようです。
自分もそうなれればよいのかもしれませんが、仕事と割り切るにはデメリットが多すぎ、
待遇の悪さも含めてやりがい搾取に見えてしまい、それもまたアカデミアを離れる理由の一つです。
1099:132人目の素数さん
24/09/01 14:49:57.15 xqhMXmb+.net
>>986
数学以外の興味Permalink
義務的に数学の研究を行うことは精神衛生に悪いとだんだん分かってきたので、博士後期以降は
「何かに興味があってノッているそのときどきに、興味の赴くままにやりたいことをやる」
というスタンスで数学をして生きてきました。そこから、
「数学的な概念をコンピュータプログラムとして実装して計算させたり遊んだりする」
ことが自分の関心のあることだということに気づきました。
1100:132人目の素数さん
24/09/01 14:50:38.75 xqhMXmb+.net
>>987
例えば博士時代は、Dynkin型道多元環や前射影的多元環上の加群圏とCoxeter群との関係から、Coxeter群の純組合せ論的な主張を考え、例外型の場合にはSageMathでコンピュータプログラムを書いて計算させたりしていました。
また「加群圏や三角圏のAR quiverが分かれば対象の間のHomが分かる」というよく知られた事実を、実際にAR quiverが与えられたらHomの次元を計算するPythonコードを書いたり、
ポスドク時代は、あるクラスの多元環の加群圏の様々な計算をするためのWebアプリを作ったり、
Leanという定理証明系(数学の定理やその証明をプログラミング言語を使って正しさの検証ができる)を使って、実際に加群論の定理を証明したり、布教のためにLeanの数学者向けのワークショップを開いたりしていました。
1101:132人目の素数さん
24/09/01 14:51:57.26 xqhMXmb+.net
>>988
残念なことに(?)、個人的な体感では、純粋数学の分野ではそのような
「計算するプログラムを作った」
「大事な定理を証明支援系で実装した」
ことは業績としてカウントされず評価もあまりされず、
「ふーん、面白い遊びを作ってるんだね、で数学は?」
という目で見られるような感覚があります(認知のゆがみかも知れません)。
ポスドク後半では上のような私の興味に合わせた活動をして、その布教もしており、
またプログラムを作る過程で発見した数学的事実の論文を書いたりはしていたのですが、
この数学に関するプログラミングの楽しさというのは、「数学とは別の自分」の発見でした。
運良く、話していた企業さんからそのような「数学の理論の実装」のような箇所を評価していただき、そこへの就職が決まった形となります。
1102:132人目の素数さん
24/09/01 14:55:25.27 xqhMXmb+.net
>>989
落ち込んだ気分の進化心理学的な起源Permalink
これは去年(学振PD3年目)に、
『なぜ心はこんなに脆いのか: 不安や抑うつの進化心理学』
という、進化論的な視点から心理学を考察する本(とても面白いです)を読んでいて
出くわした記述と関連します。
この本では、種々の精神疾患や気分や感情といった心理学的な概念が、
(通常の精神医学で行われるような脳の神経科学に基づいた説明ではなく、)
人類の種の生存といういわゆるダーウィニズム的な進化論的世界観からどのように説明されるか、
ということが書かれています。
1103:132人目の素数さん
24/09/01 14:55:37.63 gyRYJsz3.net
ウマシカおっさんは何に反応して切れたの?
1104:132人目の素数さん
24/09/01 14:57:19.77 xqhMXmb+.net
>>990
本書の6章「落ち込んだ気分と、諦める力」の167ページ程から、
「狩猟採集社会の人が、目の前にあるラズベリーの茂みに対して、どれだけ熱意を注いでラズベリーを探すべきか、そしていつやめて次の茂みへ行くべきか」
という、狩猟採集社会でよくありそうな状況を考え、
そこから感情やモチベーションや気分についての進化論的仮説が説明されています。
ラズベリーの茂みを見つけたときは、どんどんラズベリーが取れ、スピードが上がるが、少なくなっていくとスピードが下がる
しかし次の茂みを探すのはエネルギーもかかる。またラズベリーを取りすぎても重くて持ち帰れない。
ではどのタイミングで今の茂みを離れて次の茂みを探しに行ったり、ラズベリー狩りを中断するのがよいのか?
この行動モデルは数理科学的にもちろん定式化することもでき、その解を数学チックに求めることも可能です。
が、ここで「モチベーション」や「気分の浮き沈み」が重要な役割を果たすというのが、進化心理学的な視点です。
つまり、人は単に、次の原則に従えばよく、実際にそうしていることでしょう:
今の茂みをやめて次の茂みへ行く or やめるのは、単にモチベーションが落ちて気分が下がってきたときにそうすればよい
このように、何か決断をするときの指標としてモチベーションや気分があるのだとしたら、モチベーションや気分という心理学的な概念は、このような意思決定を行うときに重要な役割を果たすものとして生じてきたという進化論的説明が可能なのではないか、という主張です。
(もちろん事情はそこまで単純ではなく、いろいろな議論が本ではなされています。)
本ではその後、実際の人生で「何かをやめる・諦める」等の意思決定や重要な決断における、気分やモチベーションの果たす重要さが言及されています。
1105:132人目の素数さん
24/09/01 14:57:59.86 xqhMXmb+.net
>>992
本書を読んでいた時期がちょうど「アカデミアを諦めるかどうか」という決断を迫られていた時期なのもあり、ここに書いてある(少し単純化しすぎですが)「そのような意思決定に答えるためにモチベーションや気分がある」という説明は、とても腑に落ちるものがありました。つまり、現在の自分は数学へのモチベーションや気分が低く、実際抑うつ状態にもなる程だったので、それは自然に考えれば「そろそろ数学をやめて次の茂みを探しに行くのがよいという心のサイン」と解釈できるのではないか、ということです。
この本の記述を読んで、アカデミアを辞めるかどうかという悩みが消え、心に素直に従えばよいのだという気持ちになり、アカデミアを離れることに決めました。
(もちろん上の記述はほんの議論のごく一部分を抜粋したもので、私の理解やその学術的妥当性等については議論の余地があるとは思われますが、少なくとも自分の意思決定においては、このような考え方は非常にしっくりくるものだったという話です。)
1106:132人目の素数さん
24/09/01 14:58:38.23 xqhMXmb+.net
>>993
数学を辞めるのかPermalink
企業就職ということはもう数学を完全に辞めるのかというと、多分そうはならないと思います。詳しく書いていいかは分からないのであまり書きませんが、企業での業務内容も(応用ではありますが)数学が多少は関連していることで、研究開発部門なので、論文を読んだりはするようです、が正直仕事内容は働いてみないと分からない and 分かったとしても書いていいか分からないので、あまり言及しないことにします。
仕事以外での数学ですが、むしろ数学が義務ではなくなったことで、趣味として数学ができるのではとちょっと思っています。実際社会人だけど趣味として大学以上のバリバリの専門数学をしている人も観測していますし、自分の分野のarxivを眺めたり集会のスライドを眺めたりくらいはたぶんやると思います。また知り合いによく「君は就職しても普通に論文書きそうだよね」と言われるのもあり、もしモチベと時間と精神的余裕と面白そうなテーマがあれば、論文書いたりとかも続けるかもしれません。が、仕事との兼ね合いということもあるので、正直どうなるかはまだ分かりません。
1107:132人目の素数さん
24/09/01 14:59:07.77 xqhMXmb+.net
>>994
現在の心境Permalink
総じて、アカデミアを離れることに対するネガティブな気持ち(後悔や心残りや未練)はほとんどありません。数学を通して関わっていた人たちもいるので、その人たちと関わる機会が減る寂しさはあるかもしれませんが、まあ数学を完全に辞めるわけではないし、今後も数学の人たちと関わっていく予定ではあるので、あまり気にしていません。
むしろ業務と関連しそうな数学の勉強を最近は楽しくやっており、「久々に数学ちゃんと楽しんでやってる~」という感覚を最近は持っています。
1108:132人目の素数さん
24/09/01 14:59:53.33 xqhMXmb+.net
>>995
まとめPermalink
数学が辛い人は、数学以外の自分や自分の心も大切にして、「数学=人生ではない」「数学よりも心が大事」という視点を持って欲しい
実際に企業へ行く気があまりなかったとしても、研究職以外も検討して行動してみると、「いざとなれば研究職以外でもどうにかなる」という精神的な余裕も出てくるのでおすすめ
ちょっとでも辛かったら気軽に大学の無料のカウンセリングサービスへ行くことをおすすめ(秘密厳守なので誰にもバレないし、行って話を聞いてもらうだけでも楽になる)
あまりに病的に辛いなら、迷わず精神科・心療内科に行くべき(脳内の異常というれっきとした病気なので、薬がちゃんと効いて、徐々に良くなります)
「研究職は辛いけど、好きな数学・研究がいくらでもできて楽しいよ!」という言葉はマイナスな効果をもたらすこともあるということを知っておいて欲しい(そして「数学・研究は辛くて数学が好きかどうか分からないけどけど研究職やってるよ!」という話をもっとみんなして欲しい)
あまりに精神面の話が多くなり、期待していたものと違う内容だったかもしれませんが、アカデミアを離れるにあたって書きたいことを書いたらこうなったので、ご容赦ください。
1109:132人目の素数さん
24/09/01 15:14:13.78 xqhMXmb+.net
960-996 この人は多分躁うつ病だったんだろうとは思うが
いずれにしても自分らしい選択ができてよかったと
1110:思う
1111:132人目の素数さん
24/09/01 15:14:47.85 xqhMXmb+.net
>>997
数学だろうがそうじゃなかろうが自分のしたいことをすればいい
1112:132人目の素数さん
24/09/01 15:15:39.14 xqhMXmb+.net
>>998
やめたければやめればいいし
戻りたければもどればいい
1113:132人目の素数さん
24/09/01 15:16:16.78 xqhMXmb+.net
レイ・スマリヤン曰く
「誰でもしたいようにする権利がある」
1114:1001
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