河東泰之「セミナーの準備のしかたについて」は本当に正しいのか?at MATH
河東泰之「セミナーの準備のしかたについて」は本当に正しいのか? - 暇つぶし2ch525:132人目の素数さん
23/12/15 14:39:21.00 NkEr3tnM.net
つづき

直観主義
すくなくともゲーデルの不完全性定理が発見されるまで、あるいは、第二次世界大戦前位までは、公理的集合論が数学の基礎であることにに飽き足らない数学者たちがいた。

その時代を代表する数学者、あるいは、そうなる筈だったのに不運にも若くして命を落とした数学者たちの間に、「数学の基礎は、Principia Mathematica や、ZFCの様な公理的集合論だとすることで、現実的には困らないので、そうしておく」という状況に飽き足らない人たちがいたのである。

その様な人たちの代表としては、フランスのアンリ・ポアンカレ、オランダのL.E.J.ブラウワー、ドイツのヘルマン・ワイルをあげることができる。特に、後の方の二人、ブラウワーとワイルは、その代表格中の代表格である。

これらの人たちは、直観主義者と呼ばれる。

直観主義と呼ばれる人たちが求めていたものは、伝統的論理学に代りえる様な、本質的な基礎、だったといえる。

Principia Mathematica や公理的集合論は、上に説明したように、その成立の歴史から見て、どの様に見ても実用主義的であり、それを真理の根本とする根拠に欠けていた。

ブラウワーとワイルは、この状況に我慢がならなかったと思われる。彼らは、ラッセルやツェルメロなどが、「経験的に勝手に作ってしまった Principia Mathematica やZFC」が、数学の基礎であることに我慢がならなかったのである。

彼等にとって、数学の基礎は、何かもっと本質的なものでなくてはならなかった。

しかし、このブラウワーの数学には大きな欠点があった。哲学的な本質性が、公理的集合論などに比べて強い一方で、実際の数学の実行が困難になるのである。この様な状況の中、基礎の問題を一挙に解決する方法が、当時、数学の世界に君臨していたと言ってもよい、大数学者ダービット・ヒルベルトにより提唱された。それが、証明論、超数学(メタ数学)などの名前でも呼ばれる、形式主義という数学思想である。

つづく


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