河東泰之「セミナーの準備のしかたについて」は本当に正しいのか?at MATH
河東泰之「セミナーの準備のしかたについて」は本当に正しいのか? - 暇つぶし2ch413:132人目の素数さん
23/12/12 13:12:22.37 948RporJ.net
>>402
>まず、カントールが集合論を公理化してなかったのは確かだが
>彼は「すべての集合の集合を考える」とはいってない
>
>矛盾が見いだされたのはフレーゲの体系
違うんだな
原理は、「自己言及のパラドックス」下記です
特定の体系の話ではない
(参考)
URLリンク(ja.wikipedia.org)
自己言及のパラドックス
自己言及のパラドックスまたは嘘つきのパラドックスとは、「この文は偽である」という構造の文を指し、自己を含めて言及しようとすると発生するパラドックスのことである。この文に古典的な二値の真理値をあてはめようとすると矛盾が生じる(パラドックス参照)。
「この文は偽である」が真なら、それは偽だということになり、偽ならばその内容は真ということになり……というように無限に連鎖する。同様に「この文は偽である」が偽なら、それは真ということになり、真ならば内容から偽ということになり……と、この場合も無限に連鎖する。
集合論におけるパラドックス (ラッセルのパラドックス)
詳細は「ラッセルのパラドックス」を参照
集合論における典型的なパラドックスは次のようなものである。これは特に、バートランド・ラッセルが議論の対象としたことで知られる(ラッセルは述語論理における同様のパラドックスについても議論している)。
まず、様々な集合を2種類に分類する。ひとつは、自分自身を要素として含むような集合で、もうひとつは、自分自身を要素として含まないような集合である。
次に、その分類で、後者に分類されるもの全てからなるような集合を想定する。つまり、この集合は、「自分自身を要素として含まないような集合の集合」ということになる。(便宜上この集合を A とする。)
このような集合 A は、果たして「自分自身を要素として含まないような集合」のひとつであるかを考えてみると、もしも自分自身を要素として含まないのであれば、 A には A が含まれないということを意味する。ところが、 A は定義により、自分自身を要素として含まない集合全てを含むはずなので、 A には A 自身が含まれていなければならないはずである。ところが、もしも A に A 自身が含まれているとすると、それは A が自分自身を含む集合の一種であるから、 A の一要素として含まれていてはいけないことになる。
以上のように、この集合は自己言及のパラドックスを引き起こすことになる。
様々な解決案
言語階層
アルフレト・タルスキ
アーサー・プライア
ソール・クリプキ
バーワイズとエチェメンディ
真矛盾主義
嘘つきのパラドックスの論理構造


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