20/10/17 17:32:47.08 QjI40yYH.net
勝利の可能性が十分あったにもかかわらず、
慶喜がこのような敵前逃亡にも等しい行動をとった動機については幾つかの説がある。
近年の研究では、慶喜政権が天皇の権威を掌中に収め、
それに依拠することによってのみ成立していた政権であったとし、
それを他勢力に譲り渡した時点で彼の政治生命は潰え、
一連の行動につながったとする説が提唱されている。
また、薩摩を討つ覚悟はあっても、朝敵の汚名を恐れて
天皇(を擁した官軍)に対峙する覚悟が無かったとする説もある。
『昔夢会筆記』によれば、水戸徳川家には徳川光圀以来の
「朝廷と幕府にもし争いが起きた場合、幕府に背いても朝廷に弓を引いてはならない」
という旨の家訓があったという。