20/05/02 07:35:54 qpZJrq8I.net
>>107
つづき
開墾(かいこん)を目指す志郎に求婚されたかよは、幼いきみを連れていくのは無理と断ります。そこへ別れたはずの佐野が現れ、東京にいるアメリカ人宣教師夫妻が養女を欲しがっていると伝え、きみを手放すよう勧めます。
かよは涙ながらにきみを宣教師夫妻に託したのでした。
雨情は、その女の子がいまはアメリカでどんな暮らしをしているのかと思い、後に東京に移ってから雑誌に発表したのです。「赤い靴」は大評判になり、誰もが口ずさむようになりました。
今、彼女がたたずむ麻布十番、横浜、留寿都
ところが「赤い靴」が発表されて半世紀も過ぎた1973 (昭和48)年初冬、北海道新聞の読者欄に、富良野市に住む女性から投書が寄せられたのです。
きみの妹に当たる方からで、そこには、母かよはすでに亡(な)いが、生前、外国人宣教師に養女に出したきみのことを悔やみ、かわいそうなことをしたと話していた、と書かれていました。
この投書に着目した北海道テレビのプロデューサーがきみの妹に会い、アメリカに飛んできみを養女にした宣教師を探し、ヒュエット夫妻の存在を突き止めました。しかし、女の子がアメリカに来たという事実はつかめないままでした。
では、きみはどうなったのか。追跡調査の結果、宣教師夫妻に突然、転動命令が出て、病弱だったきみを残して日本を離れたこと。きみは東京都港区の麻布十番にあったメソジスト孤児院で暮らすうち、わずか9歳で亡くなっていたことなどが判明したのです。
きみの墓は青山霊園(港区南青山)、鳥居坂教会の共同墓地にあります。十字架のついた墓の裏側に「墓誌」として、亡くなった人々の名が見えます。上段の右から11番目の「佐野きみ」がそれに当たります。佐野姓は実の父親の姓です。
教えておくれ あの子は元気で暮らしているか
筆者(合田一道。ノンフィクション作家)は留寿都村に出掛け、きみの母思像型のオルゴールが制作され、各家庭に配られていることを知りました。
澄みきった青空の下で、美しい女性コーラスを聞きながら、母と子がたどった数奇な、 そして苦難の道を思うのでした。
(引用終り)