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- 暇つぶし2ch539:現代数学の系譜 雑談 古典ガロア理論も読む
19/12/18 07:33:07.23 w5TRx3SM.net
>>460
つづき
URLリンク(tuviannavy.hatenadiary.org)
数学者、角谷静夫の生涯(メモ) TuvianNavy’s port 2013-10-13
(抜粋)
戦争が終わって1948年、占領された日本から角谷静夫、次いで湯川秀樹がIASに招聘された。湯川は岡潔の第七論文を携えていた。二人とも当時は接収されて米軍の航空基地となっていた羽田空港から渡米した。岡の論文草稿は湯川から先に米国入りしていた角谷、アンドレ・ヴェイユを経て、パリのアンリ・カルタンに郵送された。カルタンによる校閲を経て公表は2年後の1950年であった。
角谷は戦後、日本に戻る折に、岡を訪ねて議論したという。数学者の情緒、個人的創意の役割を重視し、一般化は数学の理解にとって弊害があると考える岡は、角谷の仕事を「人のやった仕事の一般化の論文を書いてはいけない」と批判したという。
岡の仕事はカルタンによって「層の理論」の言葉で再定式化されることになるが、角谷の戦後のエルゴード理論の研究から現れた「摩天楼」の概念も、現在では層の理論で定式化されているようであり、岡が具体的に考えた内容と、角谷が抽象的に考えた内容は無関係ではなかったのであろう。
URLリンク(reuler.blo)(URLがNGなので、キーワードでググれ(^^ )
日々のつれづれ 高瀬正仁
(岡潔先生を語る74)第7論文の消息 2008/02/02 10:25
(抜粋)
 岡先生は秋月康夫に第7論文を委託し、秋月は渡米直前の物理の湯川秀樹に依頼してアメリカに運んでもらいました。湯川とともに大平洋を越えた第7論文は、在米の数学者、角谷静夫を経てアンドレ・ヴェイユの手にわたり、ヴェイユはパリのアンリ・カルタンのもとに郵送しました。
カルタンはこれを喜んで、フランス数学会の機関誌に掲載されるよう、10月15日付で受理しました。この当時、カルタンはフランス数学会の会長でもありました。
 このような一連の経緯のおおよそは岡先生のもとにも伝えられたようでした。翌昭和24年3月28日、岡先生はこの年のはじめから書き継いできたエッセイ「春の回想」を書き終えた後、書き直しに取り掛かったのですが、その際、「第7報はたぶんアンリ・カルタンのところにあります」という言葉が書き添えられています。
受理はされたものの、カルタンが手許に置いて研究していたため、第7論文はなかなか刊行されませんでした。
(引用終り)
以上


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