19/08/18 18:59:26.60 CwMq/yUw.net
>>366
つづき
ある構造がより大きい濃度の初等拡張を持つとする定理の部分を上方レーヴェンハイム?スコーレムの定理 と呼ぶ。
冒頭の簡単な言明の場合、理論の無限のモデルとは、ここでいう M である。定理の上方部分の証明は、いくらでも大きな有限のモデルを持つ理論は無限のモデルを持たねばならないことをも示す。
この事実を定理の一部とする場合もある。
例と帰結
自然数を N、実数を R とする。この定理によれば、(N, +, ×, 0, 1) の理論(真の一階算術の理論)には非可算なモデルがあり、(R, +, ×, 0, 1) の理論(実閉体の理論)には可算なモデルがある。もちろん同型の違いを除いて、(N, +, ×, 0, 1) と (R, +, ×, 0, 1) を特徴付ける公理化が存在する。
レーヴェンハイム?スコーレムの定理は、それらの公理化が一階ではあり得ないことを示している。例えば、線型順序の完備性は実数が完備な順序体であることを特徴付けるのに使われるが、その線型順序の完備性は一階の性質ではない。
理論が範疇的 categorical であるとは、同型の違いを除いて唯一のモデルを持つことを意味する。この用語は1904年、オズワルド・ヴェブレンが考案したもの[1]で、その後しばらくの間、数学者らは集合論を範疇的な一階の理論で記述することで、数学の堅固な基盤を築けると考えていた。
レーヴェンハイム-スコーレムの定理はこの希望への最初の打撃となった。なぜなら、その定理によれば無限のモデルを持つ一階の理論は範疇的にはなり得ないからである。さらに1931年、ゲーデルの不完全性定理によって希望は完全に打ち砕かれた。
レーヴェンハイム-スコーレムの定理から導かれる結論の多くは、一階とそうでないものの違いがはっきりしていなかった20世紀初頭の論理学者にとっては直観に反していた。
例えば、真の算術 (true arithmetic) には非可算なモデルがあり、それらは一階のペアノ算術を満足するが、同時に帰納的でない部分集合を持つ。さらに悩ましかったのは、集合論の可算なモデルの存在である。
それにもかかわらず、集合論は実数が非可算であるという文を満たさなければならない。この直観に反するような状況はスコーレムのパラドックスと呼ばれ、可算性 (countability) は絶対的 (absolute) ではないことを示している。
つづく