19/05/05 00:47:29.28 6liKSFi0.net
・もし、正しいとも間違いとも確信が持てないのであれば、そもそも時枝記事を書くことさえしない。
原稿料をもらって引き受けている(はず)の仕事で、確信の持てないあやふやな文章を書きなぐるなんて
プロの仕事ではないし、特に数学者はそのような行為を嫌う。
例外として、未解決問題へのあやふやな夢を語るといった文章はありえるが、
時枝記事はそういうたぐいのものではない。それなのに、自分でも確信の持てない
あやふやな文章を書くわけがない。
・それでも、正しいとも間違いとも確信が持てない文章を書かなければならないなら、
記事の冒頭で「筆者にもこの戦術の厳密な真偽は判断しかねる」といった一文が必ず明記される。
しかし、時枝記事にそのような一文はない。
・そうは言っても、時枝記事では、記事の後半で一種の「戸惑い」が見て取れる。
よく読むと、この戸惑いは「時枝戦略が成立するかしないか」に対する戸惑いではなく、
「時枝戦略が成立するのは確実だが、そうなると現代確率論のどこかに穴があるのでは?」
という懸念に関する戸惑いであると分かる。
けっきょく、
「時枝氏自身も時枝戦術には懐疑的である(あるいは、間違っていることを認めているが表面的には隠している)」
といった見解はありえない。曲解にもほどがある。