17/08/28 02:10:54.27 p9719kiw.net
かつて明治政府が制度設計をするに当たり「欧米に人を留学させて見て歩いた」というその
結果として、まあプロイセンだったかワイマール憲法だったか、そういうビスマルクとかの:
★★★『ドイツ式縦割りを基本とする秩序重視の芳雄式軍隊思想的な集団主義社会体制の講座制』★★★
を輸入して採用すると決めたんでしょうね。これはフランス革命とかナポレオン法典みたいな
「論理を基本とする合理的思想が流入すれば伝統的な儒教社会が崩壊する」という様な判断
があったからだと思いますね。まあ江戸幕府にせよ明治天皇にせよ、この国は「そういう国」
であり、だから『何とか共和国』みたいな考え方の民主主義じゃないです。つまり基本的には
統治する事が大切なのであって、あの『依らしむべき、知らしむべからず』の文化圏ですわ。
だからこの辺りから山縣有朋式の縦割り秩序みたいになって、窮屈の礎が築かれてしまった
のではないかと。でもコレは『それ以前からずっと徒弟制度が根付いてたから』であり、加え
て「早急に富国強兵をしなければならない」という明治政府の必要があったからでしょう。でも
これこそが日本という国家の成り立ちなので。
だからこういうモノを引き摺っていれば、それこそ『代数は代数、幾何は幾何、解析は解析』み
たいにナルのも当然かと。でもソコにはGromovとかConnesの住む場所なんてアリマセンわ。
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