17/05/29 09:39:50.33 IKiw8fcW.net
>>247 つづき
余録(下記面白いので追加メモ。人間の運命とは分からないものですな~。が、分からないなりに、懸命に生きるしかない・・(^^;)
URLリンク(techon.nikkeibp.co.jp)
日本の物理学と技術イノベーションのルーツ 湯川秀樹と久保亮五―素粒子物理学と物性物理学の源流 山口 栄一=京都大学 大学院 総合生存学館(思修館) 教授 日経テクノロジー 2016/05/16
(抜粋)
仁科に選ばれなかった湯川
東京で生まれた湯川は、地質調査所(現・産業技術総合研究所地質調査総合センター)に勤務する地質学者だった父・小川琢治の京都帝国大学教授就任に伴って、1歳の時に京都市に転居した。
幼少時より漢籍に親しむなど無口で内向的な少年時代を送った。
高校時代、量子論の勃興によって根本的な変革を遂げつつあった物理学に魅了され、1926年に京都帝国大学理学部物理学科に入学、1929年に同物理学科を卒業して同大の無給副手に就いた。
1932年に同大講師に就任、私生活では湯川家の婿養子となって小川姓から湯川姓になった。
前回述べたように、同年、朝永は理研に入る。一方、湯川は翌年大阪大学講師を兼任するようになる。このいきさつを2人の弟子であった中村誠太郎は、次のように記述している。
まず朝永先生は、仁科芳雄博士の目に留まって東京の理化学研究所へ研究室を移すことになる。
その後、湯川先生は、大阪大学の菊池正士博士のところの講師として就職した。
しかし湯川先生はその後、四年たっても論文を書こうともしないので、当時の八木理学部長は「朝永君を採っておけばよかった」と聞こえよがしに小言をいったという。
またずっとあとのことだが、仁科芳雄博士は湯川先生のノーベル賞受賞のニュースを聞いて「湯川君を採っておけばよかった」と朝永先生に聞こえるように嫌味を言ったという。
こうしたことは、いやが上にもお二人の対抗意識を駆り立てたことと思われる。
(中村誠太郎、『湯川秀樹と朝永振一郎』、読売新聞社、pp.45-46)