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つづき
パリでの本を書くための計画を立てる最初の会合はジュリア・セミナーの会合の後だった。
ジュリア・セミナーは、アンドレ・ヴェイユの言葉で言えば、フランス人数学者の"一世代が1914?1918の犠牲により事実上抹殺された"後、フランス数学の断層を埋めるためのヴェイユとカルタンのもう一つの試みだった。
セミナーはこれらの急進分子によりドイツでのセミナーを真似て組織されたが、ソルボンヌでの教室を得るためにスポンサーを必要とした。ガストン・ジュリア(1893?1978)はエコール・ノルマル・シュペリウールで彼等の最も若い先生で、進んで彼等のスポンサーとなった。
セミナーはー年に一トピックスをテーマとし、1933-34年に群と代数で始まり、そしてヒルベルト空間、トポロジーへと進んだ。セミナーは1939年まで続いたが、ブルバキ・セミナーに取って変わられた。
委員会の最初の計画は解析学のテキストだったが、ヴェイユによれば"微積分に対して25年間のカリキュラムを改善する"となった。このテキストは出来るだけ現代的、非常に役立つ解説書、最終的には出来るだけ厳密かつ多方面的となった。
ヴェイユは既に友人の内で出版者Enriques Freymannを知っていた。FreymannはMaison Hermannの主任編集者かつ経営者だった。新機軸の中でも、デルサルトにより主張された提案は、専門家のリーダーシップではなく集団でテキストを書くということだった。
最初の予想では、テキストは1000?1200ページからなり、およそ6ヶ月で完了するだろうだった。6人の初期グループは、Paul Dubreil(1904?1994)、Jean Leray(1906?1998)、Szolem Mandelbrojt(1899-1983)が加わって、9人に拡がった。DubreilとLerayは、1935年7月の