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riku_1114_1024さん2017/7/1000:51:53
源義経は遮那王と名乗ったのはなぜですか?王でもないのに。
neozengakurenさん 2017/7/1500:48:03
義経が日本人では無いからです。義経がモンゴル人だったからです。
元寇に敗北した天皇は范文虎を将軍にした。范文虎が初代鎌倉幕府将軍に任じられたと思います。
元の最初の襲来は源平合戦です。源平合戦(元平合戦)によって日本は蹂躙されました。
その後の二度の元寇による大量棄民によって九州と関東は南宋人の土地となりました。
東北には「寝ねば山からもっこ(蒙古)が来るぞ」という子守唄があります。
三宅島には蒙古王の墓という史跡がありました。頼朝の墓とされますが何で博多で撃退した蒙古人が三宅島に葬られているのか?
15万人の捕虜を皆殺しにしたと記録にはあるのに九州には南宋様式の城郭が28ヶ所もあります。
神風伝説も嘘と思って良いでしょう。
源平合戦で日本政府(平氏)を滅ぼした後の二回の元寇は南宋人の棄民で、どう考えても鎌倉幕府の始まりはこの南宋の棄民達です。
頼朝は范文虎です。
幕府というのは日本人にとって異質。
頼朝が日本で初めて作った制度。
遊牧民のゲルを朝廷人が目撃して幕府と呼んだのが始まりだと思う。
過去には坂ノ上田村麿が幕府を開いたなんて話は聞いたことが無い。
(引用)厳密な意味では、彼らは兵士ではなかった。どう調べても、彼らがしかるべき武装をしていたとは思えない。
これらの人々は、募集に応じた士卒たちであった。もと南宋の政府軍だった人々から、希望を募ったのである。
従来、まま誤解されるような、強制徴発ではなかった。しかも、おそらく彼らは「精兵」ではなかった。
・・・・彼らが携帯したのは、どうやら武器ではなく、農器具であったらしい。つまり、10万の大部分は、入植の
ための「移民」に近かった。慶元を出発した大艦隊は、事実上、「移民船団」であったといえるかもしれない。
主に「移民」たちが乗り組んだ中小艦船と旧来の艦船は平戸沖などに待機するうち、嵐で覆没してしまった。
「海外移民」は一面において「海外棄民」であった。
<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』1996 講談社現代新書 下 p.129-135>