20/10/28 19:08:42.45 EjM4q0uO.net
鎌倉幕府がモンゴルと戦うハメになったのは、南宋出身の僧侶がけしかけた説あり
元のフビライハーンは、日本に対して最初は我が国と交流し友好関係を結ぼうではないか。
後、我が国に貢物をよこしなさい。こんな感じの国書を最初に送り、国書の文書からは本格的に
武力侵攻をするとは書かれて無いのに何故に、鎌倉幕府の執権の北条時宗は警戒して国書を送り返さず無視をしたんですかね?
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ベストアンサー
モンゴルとしては日本に朝貢を求め、円満に国交を結ぶことを望む内容の国書だったようです。
何故、幕府がモンゴルに対して頑なな態度をとったかというと、仰る通り、南宋からの亡命僧の存在があったからです。
当時、幕府は南宋から招いた僧侶を外交の相談役としていました。
北条時宗の招きで来日した南宋出身の大休正念は、祖国を失った恨みもあったのでしょう、南宋の遺臣などから
収集したモンゴルの動静を時宗に伝えていますが、それは「モンゴル憎し」でこり固まった内容が多く、これを聞いて
時宗はモンゴルを警戒し、侵略者として認識していったと考えられます。
幕府が終始強硬姿勢を貫いた背景には、「モンゴル憎し」でこり固まった南宋からの渡来僧の存在があったからでしょう。
質問者からのお礼コメント
適当に返書して、国交を開きながら沿岸部に兵を配置して行った方が賢かったかもしれませんね。