22/01/18 06:15:09.86 Bcq1juBs.net
>>709-712 >693
「真の近現代史観」懸賞論文 受賞作品 日米百五0年戦争と日本再生への道標
https:
//ajrf.jp/ronbun/award/award05_yushu.html
支那に於いては、ジョン・ヘイの提案により、義和団事件の賠償金によって、一九一一年に支那人クリスチャン留学生の予備校である
「清華学院」を北京に設立して、多くの留学生を渡米させ、彼等は帰国後反日親米勢力として活動したが、
これは日露戦争後に起こった支那から日本への留学ブームに対する対抗措置でもあった。
また、当時支那へ渡っていたアメリカ人宣教師もその数は二千人以上に達しており、彼等は支那の排日運動の黒幕として暗躍した。
一九一九年に起こり、排日運動の発端となった「五四運動」に於いても、背後に米公使館と宣教師による煽動工作があったといわれている。
一九二一年(大正十年)になるとアメリカは第一次世界大戦後、一層国力と存在感を増した日本の封じ込めを謀るために「ワシントン会議」
を開いた。先ず、「四カ国条約」によって太平洋の島々の領土と権益の相互尊重と非軍事基地化を唱って「日英同盟を破棄」させながら、
米英はハワイとシンガポールを除外して軍事基地の増強を進めた。次に、「五カ国条約」によって海軍力の増強を封じ、日支の協調接近
を最も恐れた米英仏は「九カ国条約」によって日本の支那進出抑制と日支の離間を謀ったのである。
金融の分野では、米英仏は日本に対し、一九二〇年に「新四国借款団」の結成を強要し、日本独自の支那への投資に足枷を加えた(9)。
また、言論や文芸の分野に於いても、一九三一年(昭和六)以降のヘンリー・ルースの「タイム」に代表される徹底した蒋介石と宋美齢夫妻
の賞賛と対日悪宣伝が展開され(10)、パールバックの「大地」がピューリッツァー賞に続いてノーベル文学賞を受賞し、
支那に対するアメリカ国民の友好感情を大きく高めたことも無視できない。