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2021/08/14
手足の吹き飛ばされた遺体、ぎこちない笑顔の日本兵と子どもたち…戦前の「検閲済」絵はがきにのぞく“大日本帝国”
『絵はがきの大日本帝国』 #2
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盧溝橋事件から第二次上海事変へ
1937(昭和12)年7月7日、北平(現在の北京)郊外の盧溝橋付近で日本軍部隊が夜間演習中、突然、銃声が鳴り響いた。
点呼すると、一人の二等兵が見当たらない。日本軍部隊は中国軍(国民革命軍)の攻撃と断定して直ちに応戦した。
その後、兵士は見つかった。一時は緊張が高まったが、小規模な衝突に終わり、7月11日に現地で停戦協定が成立する。
日中両政府は「不拡大」の方針を示し、事態は一旦収束に向かった。そんな期待は裏切られ、全面戦争に至る。
ちなみに日本軍は駐留を北京議定書(1901)に基づくと主張していた。
?介石率いる中華民国国民政府はドイツと友好関係にあった。ドイツ人軍事顧問団を招き、最新の銃器や装甲車を買い揃えていた。
ドイツにとって中国は最大の武器輸出先であると同時に、装甲や徹甲弾に欠かせない希少金属タングステンの重要な供給元だった。
上海と長江流域にはドイツ人によって訓練された精鋭8万人を含む30万人の中国軍部隊が配置されていた。
中国軍は万全の態勢で日本の租界(上海)を包囲、8月13日に市街戦が始まった。
北京を中心とする華北方面の北支戦線に続いて、上海戦線の火蓋が切って落とされた。第二次上海事変の始まりだ。