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「爆音がしてガラスが割れたので『ウクライナ軍の訓練は本格的だな』と呑気に構えていました。
しかし、周囲の様子が慌ただしく、ミサイルが基地に30発ほども着弾して『本当の攻撃なんだ!』と慌てて建物から逃げ出しました。
この時、死亡したり、腕がもげたりした人も多く見かけました」
現実のミサイル攻撃で多くの義勇兵が怯えて逃げ出したが、山田氏はそのまま部隊に留まり、東部の最前線に配属された。
「義勇兵の中にはゲーム感覚で参加する人がいて、そういう人たちは長続きしませんでした。
ここでは砲兵戦が多くて元米軍兵士も今まで経験したことのない戦いに自信をなくして帰国します。
本当にウクライナを助けたいという者だけしか残りませんでした」
4月24日、山田氏は敵陣の偵察と狙撃という任務を任せられ、東部ハルキウ州のモロドバ村という激戦地に投入される。
ロシア軍の榴弾砲や迫撃砲といった潤沢な武器に対して山田氏らはライフルやマシンガン、せいぜいグレネードランチャーのみという装備で戦った。
「最初からロシア軍に包囲されて、次から次へと攻め込まれ、散々な目に遭いました。
部隊が後退することになり、私を含む3人が撤退を援護するために最後まで戦いました。
そんな危機的な状況下でなぜか『麻婆豆腐』が頭に浮かび、そのことだけを考えていました」
それだけ尋常ではない心理状態だったということだろう。
ロシア軍からの砲撃は想像を超え、山田氏たちは地面に掘った塹壕に身を隠した。
「自衛隊にいた時は『こんな時代遅れの訓練をして実戦で役に立つのか?』と思っていました。
しかし、今回の戦争はアフガニスタンやイラクのような対テロ戦ではなく、正規軍同士の砲撃を中心とした、まるで第二次大戦中のような戦い方でした。
なので、陣地の構築など、自衛隊で訓練したことが役に立ったんです」