10/07/20 22:10:44 Qz4AuHu3.net
今日の朝日新聞の記事です。 84歳の方の投書です
竹の粉まで食べようとした
終戦を4カ月後に控えた45年4月13日の空襲で私たち家族4人は生まれ育った
東京の家を焼かれ、亡き父の実家がある奈良県の山村に疎開した。
だが、本当の苦しみはそれからであった。
よそ者は寄せつけないというかたくなな土地柄のうえ親類にも甘えられず、
日常のわずかな食料をわけてくれる所もない。
食事は1日3回、十数粒のいった大豆だけ。
極度の空腹から19歳の私と5歳上の姉の生理は止まり、高さ20㌢ほどの
縁側にも足が上がらなくなった。
家の裏に小さな竹製品の工場があった。竹を切るときに出る細かい粉を
見つけ、タケノコが食べられるのだからきっと食べられるに違いないと、
夜中にこっそり手で拾い集めた。
でも、とても食べられる代物ではなかった。
終戦から5カ月後、戦争から帰還した義兄が、こんなところにいたら皆
死んでしまうと東京の自宅へ連れ帰ってくれた。
東京では空襲で傷ついた者同士の人情にもふれることができて、ほっとした
2002年~2006年まで奈良に住んだけど この時代と同じです。
現在東京に住んでいるが、東京もやさしいとは思わないが、奈良よりは、温かい
街だと思います。