14/04/08 18:04:25.75 VVEi1DQK
>>512 机さん
>どちらも今です。過去も未来も現時においてしか縁起しない。
>今を離れることは無いです。
>縁起ですから、それは認識だけです。その主体は無自性ですから、あえて「主体が誰」と認識するのも縁起です
ということは、どのような妄想をしていても、何を考えていようとも、
凡夫がそのまま日常を送ろうとも、それは即ち「今」であり、「無限」の状態である
ということでしょうか?
そうなると、凡夫はそのままの状態でよい、ということでしょうか・・。
何も修行しなくても、そのまま日常の生活を送っていれば、「今」にいることになり、
そして「今」にいることは、「無限」の状態であり、なぜ無限かと言えば、
それは仏性に溶け込んでいるからだ、ということになります。
つまり、凡夫はそのまま仏性に溶け込んでいて、悟っていて、今におる、
ということになります。
机さんの考えは、これでいいのでしょうか・・・?
>つまり究極そのものは無いのです
両極が存在しないのなら、その真ん中も存在しないように思うのですが、
なぜ、両極が存在しないのに、「中の道」というのでしょうか?
もし、存在しないのならば、「無」で済むと思います。
これについてはいかがでしょうか・・・?