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2017.5.22 10:09
★【沖縄返還45周年】「差別されているとは絶対に言いたくない」「独立は非現実的、常識ある沖縄になって」 我喜屋優・興南高野球部監督が語る
沖縄の本土復帰(昭和47年)から45年がたった。かつて米統治下に甲子園の土を踏み、
7年前に監督として興南高校(那覇市)野球部を沖縄県勢初の甲子園春夏連覇に
導いた我喜屋優氏(66)=興南学園理事長、興南中・高校長=が、
祖国復帰への喜びや沖縄の課題などを語った
私が初めて内地に渡ったのは昭和41年夏、興南高が甲子園に初出場したとき。
1年生で選手ではなく手伝い要員でした。パスポートをつくりB円(軍票貨幣)を円に替え、
海を越えて汽車に乗る。全て初めての経験でした。遠い遠い甲子園でした。
試合は1回戦で負けましたが、みんなが「沖縄、沖縄」「チバレヨー」と応援してくれました。
43年夏。3年生のときに主将として4番として甲子園に立ちました。ベスト4に進出しました。
沖縄では大騒ぎです。沖縄のチームは「判官びいき」で声援を受けてきましたが、
本土の学校と実力で肩を並べたと実感しました。甲子園から本土と沖縄の交流が始まり、
僕らの活躍で本土復帰がぐっと近づきました。
甲子園で新聞記者の質問は奇妙でした。「日の丸を見てどう思うか」「英語で勉強しているのか」…。
日の丸は幼い頃から正月に家で掲げていました。沖縄は日本国の一部で、
日本人という意識で生活をしていました。
URLリンク(www.sankei.com)
「日の丸はいつも掲げています」「教科書は日本語です」と答えましたが「外国人扱いされている」
「沖縄のことが理解されていない」と感じました。
高校卒業後、本土に渡り野球を続けました。本土復帰の47年5月15日、
大昭和製紙北海道に在籍し、会社でお祝いをしてもらいました。
気持ちは常に日本人でしたが、祖国復帰実現の喜びをかみしめました。
沖縄に戻り、母校の監督として甲子園での春夏連覇を達成できました。
沖縄県勢の夏の優勝、春夏制覇は初めてで「沖縄がひとつになった」と実感しました。
本土復帰から45年。沖縄が本土の模範にならなければいけないと思い続け、
今もそれが目標です。小さいことにこだわりません。「差別されている」とは絶対に言いたくありません。
生徒には内地でリーダーになれるよう指導しています。井の中の蛙にならず、
人生のスコアボードの勝者になれ、日本そして世界で花を咲かせよう-と。
沖縄の現状に違和感を抱いています。沖縄には礼儀を重んじる空気が昔からあり、
おじい、おばあが生き字引としてああだこうだと教えてくれました。その伝統が失われつつあります。
何でも反対するのもいいが本土と切り離されていた元の沖縄に戻ってしまう。
子供たちが本土に渡ったとき「沖縄って何やっているの」と言われます。
URLリンク(www.sankei.com)
夏の高校野球沖縄県大会開会式の国旗掲揚は、ほとんどの人が起立しません。
日の丸を「俺は反対だ、嫌だ」と言う。スタンドで起立するのは私と興南の生徒、関係者だけです。
地元の新聞(琉球新報、沖縄タイムス)の記事は目を背けたくなります。
基地問題で反対運動をする人たちも相手をののしったり、警察官の人権を無視したり…。
そこまでやってほしくない。地元紙は一方的なことしか書かない。それこそ沖縄の人間はそうなんだと見られてしまいます。
生徒には「平等性、公平性をもって判断しなさい」と指導しています。
子供は多種多様な事象に触れて大人になっていきます。「新聞も全国紙がネットで一瞬のうちに
読めるから、どうとらえているのか考えなさい」と言っています。創造性、独創性を身に付けさせることが大事です。
米軍普天間飛行場(宜野湾市)辺野古移設問題は、気持ちはいろいろありましょうが、
決まったことには従わなければいけません。「世界にはルールがいっぱいある。それに従うことが
必要だ」とも指導しています。日本、世界で通用する人に育てるためです。最も嫌なのは
「決まっても従わないのが沖縄の人」と言われることです。
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