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2017.5.3 09:00
★【石原慎太郎 日本よ】特別版 憲法に問われる国家の主体性
今ようやくその改正を問われている日本国憲法の生い立ちについて、
大方の国民が忘れていると言うより迂闊に知らずにいる歴史的事実があることを
この今こそ思い起こすべきと思われる。それは共に同盟国として敗戦し連合国に
降伏したドイツと日本の敗戦に際しての姿勢の決定的な違いについてだ。
未曽有の新兵器原爆によって瞬時に二度も数十万の市民を殺戮されて
腰を抜かした日本が無条件降伏をしたのに比べて、ドイツは降伏に際して
あくまでも三つの条件をつけ、それが受け入れられぬ限り徹底して戦うと主張した。
その三つの条件とは第一に、敗戦の後の国家の基本法の憲法はあくまでドイツ人
自身の手によって作る。第二は戦後の子弟の教育指針はドイツ人自身が決める。
第三はたとえ数はごく少なくとも国軍は残すというものだった。
この国家民族の主体性を踏まえた主張は勝者の連合国側にも受け入れられ、
ドイツは他国による完全支配を免れた。それに比べ日本は他国による奴隷的な
支配の甘受を許容することになった。その国家民族の没個性的な状況を象徴
するのが現憲法に他ならない。
混迷し、暗黒だった中世が終わった後の世界の歴史は白人による有色人種への
一方的支配だったが、唯一の歴史的例外は日本という国家の存在だった。
白人による他地域への支配を象徴する強大な帝国海軍を保有した有色人種の
国家は唯一日本であり、世界一巨大で強力な戦艦『大和』や『武蔵』を保有するに
至った日本は白人支配に対する歴史的『NO』を示す目障りな存在だった。
アメリカによる戦後の日本支配はその復活を半永久的に封じるためのものに
他ならなかった。それを象徴するものが彼等が即製し強引にあてがった現憲法に他ならない。
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■白洲氏「吉田茂の最大の間違い」
今は亡き江藤淳がアメリカの戦後日本における言論統制を痛烈に批判した論文
『閉ざされた言語空間』にあったように日本人の正統な日本語による為政者への
統制批判を封じるものの象徴的存在は、間違った日本語で綴られた前文に始まる
憲法に他ならない。かつてシェイクスピアを全訳もした優れた英文学者でもあった
福田恆存が指摘していたように憲法の前文には明らかに慣用の日本語としては
間違いの助詞が数多くある。たかが助詞と言うなかれ、一つの助詞は言語の
本質からしてそれ一字だけで文章全体の品格を左右しかねないものなのだ。
■文章の芯たる助詞の誤訳
かつてドナルド・キーン氏であったろうか、昔の優れた叙景歌人だった永福門院の名歌
『真萩散る庭の秋風身にしみて夕日の影ぞ壁に消え行く』を翻訳して見せられた時、
なるほどと感心して読みなおした私に、「でもあそこの一字だけはとても難しくて、
英語に訳すのはまず無理ですねえ」と慨嘆してみせ、私も「あれは難しいでしょうな」
と相槌を打ったものだが、ここの禅問答みたいな会話の芯は夕日の影ぞの、
「ぞ」という間投詞の味わいなのだ。この歌は夕日の影「も」でも成り立つが「ぞ」
という助詞一字の味わいがなくしては帝の寵を失った女の悲しみは伝わってこない。
それほど助詞というものは文章を支える芯の芯にも値するものなのだ。
しかしアメリカ人が英語で即製して日本語に翻訳した憲法にはわれわれが
日常使う日本語としてはなりたたないような助詞の誤訳が随所にある。
例えば多くの問題を含む九条を導き出すための前文『平和を愛する諸国民の公正と
信義に信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した』という文言の「公正と
信義に信頼して」の一行の助詞の『に』だがこれは日本語としての慣用からすれば
あくまで『を』でなくてはならず誰かに高額の金を貸す時に君に信頼して貸そうとは
言わず君を信頼してのはずだろう。さらに後段の『全世界の国民が、ひとしく恐怖と
欠乏から免かれ』云々の『から』なる助詞は『から』ではなしに慣用としては恐怖『を』
免れのはずだが英語の原文の前置詞がFROMとなっているために『から』とされたに違いない。
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