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★【日米首脳会談・屈辱の歴史】村山氏は会見の放映もなし
2017.02.08 16:00
「政界一の英語力」を謳われた宮沢喜一首相は、首脳会談でも通訳を待たずに
丁々発止のやりとりをすることで知られた。しかし、議長を務めた東京サミット
(1993年7月)に乗り込んできたビル・クリントン大統領に徹底的に叩きのめされた。
サミット期間中、クリントンは宮沢に米国からの輸入量の数値目標を迫った。
この会談で決まったのが、悪名高い米国から日本への「年次改革要望書」だ。
米国は日本に大店法廃止、郵政民営化など毎年の改革要求を突きつけ、
日本は経済主権を失い、「第2の占領」状態になった。
そして、異例ずくめだったのが1996年の村山富市首相の訪米だ。
ホワイトハウスでの首脳会談では通常、大統領執務室で首脳同士の
“サシの会談”が行なわれる。だが、クリントンは「効率をあげたい」といきなり
大部屋での全体会議を開催、会談後の記者会見も専用の部屋ではなく、
狭い玄関ホールで間に合わせた。しかも、米国では大統領と各国首脳との
共同会見は例外なくCNNで放映されたが、村山首相はなし。
古森義久・産経新聞ワシントン駐在客員特派員が振り返る。
「30年近く米国取材をしてきたが、村山首相への対応はひどかった。
首相はブレアハウス(ホワイトハウス隣の迎賓館)に泊まったものの、
閣僚など要人で会ってくれる人はほとんどおらず、行くところもなかった」
※週刊ポスト2017年2月17日号
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