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★トランプを罵倒したデ・ニーロが一転「敬意を払う」。「クソ安倍」と言い続ける人は無邪気だ
2016.11.17
いまだ冷めやらぬトランプ大統領誕生の衝撃。現実を受け入れられないセレブも多いようだが、
一方では態度を変える動きも出始めている。
■反トランプのセレブたちが、次々と「受け入れる」発言
歌手のマイリー・サイラスは、トランプ大統領を認めるとし、その代わりあらゆる人々に敬意をもって接するよう求めた。
カナダへの移住をほのめかしていた俳優のブライアン・クランストンも、「次期大統領が傷ついた我々の国を
ひとつにまとめてくれることを願う。心から彼の成功を願っている」(映画.com 11月10日配信)と語ったという。
そんな“転向組”の中で、最も象徴的な存在がロバート・デ・ニーロだろう。選挙中にトランプ氏を
「バカ、豚、クソ、ペテン師」とまくしたて、「殴ってやりたい」とまで言って攻撃していた彼が、
投票結果を受けて次のようなコメントを発表したのだ。
「大統領という地位には敬意を払わなきゃいけない」「彼がこれから何をして、実際に個々の課題をどのように
処理していくのかを、われわれは注視していかなければならない」(AFP BB NEWS 11月11日配信)
手のひら返しと言ってしまえばそれまでなのだろうが、この言葉にはそれだけでは済まされない“原則”があ
ると思うのだ。それは、デ・ニーロが正当な慎み深さをもって権力に向き合っているという事実による。
もちろん世界最高クラスのパワーを有する「アメリカ大統領職」を前にして平伏せざるを得ない現実もあるだろう。
しかしそれ以上に、単純な批判が権力者にとって栄養にしかならないという構造的な必然性に対する畏怖こそが、
デ・ニーロの姿勢を変えたとは考えられないだろうか。
“憎まれっ子世にはばかる”が真理であるとすれば、トランプへの攻撃は彼を支援することと同義になってしまうのだ。
トランプの右腕とされるスティーブン・バノンは、新大統領に向けられるあらゆる批判を読み替えて、
反撃する際に燃料として使うだろう。
だから、無邪気で一義的な批判は厳に慎むべきものなのだ。
URLリンク(nikkan-spa.jp)
■安心して「クソ安倍」と言い続けられる日本
さて、これを日本に置き換えたとき、有名人たちの権力者への態度が一様に“無邪気で一義的”
であることがとても気がかりだ。
たとえば、「ASIAN KUNG-FU GENERATION」というバンドの後藤正文が「クソ安倍」だとか「くるくるぱー安倍」
だと公衆の面前で言い放ったあとでも、温かい食事と睡眠をとり、翌日は何事もなかったように生活できる。
その秩序体系を維持する最高責任者は一体どこの誰だと考えているのだろうか?
同じことを中国やロシアでしてたとして、無事でいられるとでも思っているのだろうか?
こうした無自覚な反抗で思い出すのが、『あらし』(シェイクスピア)の一節である。
ナポリ王国の顧問官・ゴンザーローが思い描くユートピアを次のように語る場面だ。
<この国におきましては、万事この世とあべこべに事を運びとう存じます、先ず、取引と名の附くものは
一切これを許しませぬ、役人は肩書無し、民に読み書きを教えず、貧富の差は因より、人が人を使うなど
――とんでもない、すべて御法度、契約とか相続とか、領地、田畑、葡萄畑の所有とか――これ、
またとんでもない話、金属、穀物、酒、油の類に至るまで、一切使用厳禁、働くなどとは以ての外、
男と生れたからには遊んで暮す、勿論、女にしても同じ事、ただし未通で穢れを知らず、いや、
そもそもこの国には君主なるものが存在しない――>(『夏の夜の夢・あらし』シェイクスピア 訳・福田恆存、新潮文庫)
これらの文言がモンテーニュからの借用であることは知られている。
だが、シェイクスピアはこうした物の見方の背景に「悪に対する未熟な感性」や
「おめでたいほどのナイーヴさ」があることを見抜き、言葉の姿かたちはそのまま残しながら、
裏側から理想を眺めていたのである。
(筆者註:「」内は、いずれも『Shakespeare’s Montaigne The Florio Translation Of The Essays』
内のスティーヴン・グリーンブラットによる序文からの引用)
(以下リンク先で呼んでください)
<文/石黒隆之>
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