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★改憲論議で無視してはならない日本国憲法の「出自」
憲法を書いた実務責任者が語った驚くべき舞台裏とは
2016.7.18(月) 古森 義久
今回の参議院選挙で、憲法改正を目指す勢力が全議席の3分の2以上を獲得し、
改憲の発議の権利を得たことで、改めて憲法改正の是非が国政の場における主要な
議題として浮かび上がってきた。
この憲法論議にあたっては、日本国憲法のそもそもの生い立ちを知ることが欠かせない。
一体、誰が日本国憲法を作ったのかという正しい認識がこれからの議論には不可欠である。
だが、これまでの憲法論議では不思議なほどその出自が語られてこなかった。
まるで故意にその点の議論を避けていると思わせるほどである。
■日本側の草案を一蹴したGHQ
日本国憲法は、日本が連合国の占領下にあった1942(昭和21)年2月2日から10日ほどの間に、
米軍の将校十数人により一気に書き上げられた。
この米軍の将校団の統括責任者は連合国軍総司令部(GHQ)のコートニー・ホイットニー
民政局長であり、実務の責任者はホイットニーの部下のチャールズ・ケーディス民政局次長だった。
連合国軍といっても主体は米軍だったのだ。
実務責任者のケーディス氏は当時39歳。コーネル大学やハーバード大学で法律を学び、
戦前からすでに弁護士として活動していた。1941年12月に米国が日本やドイツとの戦争に入ると、
同氏は陸軍に入り、参謀本部で勤務した後、フランス戦線に赴いた。日本には1945年8月の
日本の降伏後すぐに赴任して、GHQで働くようになった。
GHQは当初、日本側に新憲法の起草を命じた。命を受けた時の幣原喜重郎内閣は国務大臣の
松本烝治にその起草を任せた。まもなく草案ができたが、GHQはそれを一蹴した。米国から見て
内容が民主主義的とは言えないというのがその理由だった。
その結果、GHQ自身が日本の新憲法を書くことを急遽決定した。そして、1946年2月、
実務責任者にケーディス大佐が任じられたのである。
■ケーディス氏の一存で9条を修正
私はそのケーディス氏に面会し、日本国憲法作成の経緯を詳しく聞いたことがある。1981年4月のことだ。
面会の場所は、当時ケーディス氏が勤務していたニューヨーク・ウォール街の大手法律事務所だった。
当時75歳のケーディス氏は、私の質問に、時には用意した資料をみながら、なんでもためらわずに
答えてくれた。インタビューは結局4時間近くに及んだ。
ケーディス氏の話を聞いて私が最も衝撃を受けたのは、日本国憲法が作られた過程の“異様さ”だった。
なにしろ手続きがあまりに大ざっぱなのだ。また、日本側の事情や要望はまったく考慮されず、
内容はまさに“押しつけ”そのものであった。
戦勝国が被占領国に受け入れさせた憲法なのだから仕方がないといえばそれまでである。
だが、それにしてもなんと粗雑に作られた憲法なのかと驚かざるをえなかった。
ケーディス氏によれば、起草は、都内のいくつかの大学図書館から諸外国の憲法の
内容を集めることから始まった。その時点で新憲法の内容について決まっていたのは、
後に「マッカーサー・ノート」と呼ばれる黄色の用紙に殴り書きされた「天皇を保持する」
「戦争を放棄する」「封建制度を廃止する」という3つの原則だけだった。
「私が書くことになった第9条の目的は、日本を永久に非武装にしておくことでした。
上司からのノートでは、日本は自国の安全保障のためであっても戦争を放棄することとなっていました。
しかし、その部分は私の一存で削りました。どの国も固有の自衛の権利は有しているからです」
ケーディス氏は後に日本側から「芦田修正案」が出されたときも、同氏の判断だけでOKを与えたという。
この修正案は9条の第2項の冒頭に「前項の目的を達するため」という字句を挿入することで、
固有の自衛権を認め、自衛隊保持の根拠を供した。
憲法草案のこうした重要な部分は、事後に上司のホイットニー民政局長やマッカーサー元帥の
承認を得てはいるが、事実上、ケーディス氏の判断だけで作り上げられたと言っても過言ではない。
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