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★沖縄二紙が「基地ばかり」を報道する理由 「偏向」批判に抗する記者たち
by 安田浩一 (更新 2016/6/30 07:00)
“嫌沖”という言葉がある。身勝手、左翼の島、反日……。一部保守論壇やネットを中心に流布する言葉を、
何の検証もなしに鵜呑みにし、対象を歪め、貶め、侮蔑する。それだけに、対象が与えられる傷は深く、悲しみは底知れない。
「沖縄の二つの新聞はつぶさないといけない」
この“嫌沖”発言をきっかけに、ジャーナリストの安田浩一は、『沖縄の新聞は本当に「偏向」しているのか』(朝日新聞出版)を書き上げた。
槍玉に挙げられたのは「琉球新報」と「沖縄タイムス」2紙だ。両紙の新人記者から編集トップまで、安田はとにかく話を聞いて回った。
地元紙を批判する人や、2紙に代わる新聞を立ち上げようと奔走した人にも取材した。
1年を費やした取材のなかで、安田が到達した結論とは……。
* * *
なぜ、基地の問題にこだわるのか─。
沖縄紙の記者たちにそれを問い続けてきた。
「すべての事象が基地につながるから」
多くの記者がそう答えた。
沖縄で取材を続ければ、なにを追いかけていても、必ず基地と戦争にたどり着く。避けることはできない。
事件記者も、政治記者も、経済記者も、島を分断するように張り巡らされたフェンスの前で立ち止まる。いや、立ち止まらざるを得ない。
国土の0.6パーセントの面積しか持たない島に、全国の米軍専用施設の74パーセントが置かれているのだ。
過重負担もいいところだ。それは、沖縄が望んで誘致したものではない。押し付けられたものだ。
沖縄は、ずっとそうだった。同化を強いられ、戦争に巻き込まれ、多くの県民の命が奪われ、米軍に統治され、
基地負担を背負わされた。主権を奪われ続けてきた。
社会の隅々に、生活のあらゆる場面に、基地の存在が重くのしかかる。戦争の記憶が染みわたっている。
だから書かざるを得ない。無視することなどできない。地元の記者が書かずして、いったい誰が書くというのだ。
基地問題に触れずに済むのであれば、むしろそうであってほしいと、記者の多くが望んでいた。
「取材したいことはほかにも山ほどある」と若手記者は訴えた。
「基地問題に追われ、視界に映ることのなかった問題もあったかもしれない」とベテラン記者も嘆いた。
基地問題をやりたくて沖縄紙に入ったという者は、実はそれほど多くはなかった。
一部の記者は、こっそり私に打ち明けた。家の近所だから就職を決めた女性記者がいて、寒いところが嫌いで南の果てを
選んだ県外出身の記者がいて、大手マスコミの入社試験に落ちまくり、たまたま合格したのが沖縄紙だったという記者がいる。
しかし、カメラを担いで走り出せば、基地はいつも目の前に立ちふさがる。
目をそらしたって、戦闘機の爆音は耳に飛び込んでくる。沖縄で記者をするというのは、そういうことだ。
それを「偏向」だとする声がある。沖縄紙が県民を「洗脳」しているのだとする声もある。
沖縄紙を「敵」として認知し、叩くことで、排他の気分に乗っかる者たちがいる。
いまからちょうど1年前、自民党の学習会で、作家・百田尚樹氏は「沖縄の新聞はつぶさないといけない」と話した。
これをきっかけに、沖縄紙への攻撃はますます強まった。
「偏向」とはいったい何なのか。では、新聞が果たすべき役割は何なのか。
それを確かめたくて、私は沖縄に通い続けた。
あるベテラン記者はこう漏らした。
「一方に大きな権力を持つ者たちがいる。もう一方に基本的な人権すら奪われた者たちがいる。
その不均衡をメディアはどう報ずるべきなのか。そのとき、権力と一体化して奪われた者たちを批判するのであれば、
それこそ恥ずべき偏向なのではないか」
さらに別の記者はこう続けた。
「洗脳なんてできるわけがない。読者の信頼を失ったら、新聞はそれで終わりです」
かつて沖縄には数多くの新聞が存在した。「保守」を掲げる新聞もあった。
激しい競争のなかで生き残ったのが、「琉球新報」と「沖縄タイムス」の2紙だった。それが県民の選択である 。
>>2へ続く
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