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2016.5.23 08:00
★【国会議員に読ませたい敗戦秘話】広島原爆投下を眼下に見た紫電改操縦士がいた!「これは戦争じゃない。虐殺だ…」
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原爆は戦争ではない。虐殺だ。
1945(昭和20)年8月6日午前7時45分、22歳だった第343海軍航空隊(通称・剣部隊)少尉、
本田稔は、兵庫県姫路市の川西航空機(現新明和工業)で真新しい戦闘機「紫電改」を受け取り、
海軍大村基地(長崎県大村市)に向けて飛び立った。
高度5千メートル。抜けるような青空が広がり、眼下には広島市の街並み、そして国宝・広島城が見えた。
その瞬間だった。猛烈な衝撃にドーンと突き上げられたかと思うと紫電改は吹き飛ばされた。操縦桿は全く利かない。
必死に機体を立て直しながら地上を見て驚いた。
「街がない!」
広島の街が丸ごと消えていた。傾いた電柱が6本ほど見えるだけで後はすべて瓦礫。炎も煙もなかった。
やがて市中心部に真っ白な煙が上がり、その中心は赤黒く見えた。白い煙は猛烈な勢いで上昇し、巨大なきのこ雲になった。
「弾薬庫か何かが大爆発したのか?」
そう思った本田は大村基地に到着後、司令部に事実をありのまま報告したが、司令部も何が起きたのか、分からない状態だった。
正体は原子爆弾だった。
米軍B29爆撃機「エノラゲイ」は高度9600メートルからウラン型原爆「リトルボーイ」を投下、急旋回して逃げ去った。
午前8時15分、リトルボーイは地上600メートルで炸裂した。閃光、熱線に続き、超音速の爆風が発生した。
本田が見たのは、この爆風で廃虚と化した広島の街だった。この後、大火災が発生し、この世の地獄と化した。
本田が、広島に米軍の新型爆弾が投下されたことを知ったのは2日後の8月8日だった。
翌9日、大村基地から大村湾を隔てて15キロ南西の長崎市で再び悲劇が起きた。
9日午前11時2分、B29「ボックスカー」はプルトニウム型原爆「ファットマン」を長崎市に投下した。
第1目標は小倉(現北九州市)だったが、視界不良のため長崎市に変更したのだ。
広島と同様、空襲警報は発令されず、大村基地にも「敵機接近」との情報はもたらされなかった。
本田は食堂で早めの昼食を食べていた。突如、食堂の天幕が激しく揺れ、基地内は大騒ぎとなった。
まもなく上官が本田らにこう命じた。
「長崎に猛烈な爆弾が落とされて病院はすべてダメになった。収容できない被害者を貨車で送るから大村海軍病院に運んでほしい」
本田は手の空いている隊員20人を率いて海軍病院に向かった。
海軍病院前にはすでに貨車が到着していた。扉を開けると数十人が横たわっていた。
だが、体は真っ黒で髪もなく、服も着ていない。男女の区別どころか、顔の輪郭も分からない。
息をしているかどうかも分からない。
「とにかく病院に運ぼう」
そう思い、担架に乗せようと1人の両腕を持ち上げるとズルッと肉が骨から抜け落ちた。
甲種飛行予科練習生(予科練)を経て海軍に入った本田は41年の日米開戦以来、
インドネシア、トラック諸島、ラバウルなど各地で零式艦上戦闘機(零戦)の操縦桿を握り続けた。
ガダルカナル島攻防では、盲腸の手術直後に出撃し、腹からはみ出した腸を押さえながら空戦したこともある。
本土防衛の精鋭として剣部隊に配属後も、空が真っ黒になるほどのB29の大編隊を迎え撃ち、何機も撃墜した。
この間に何人もの戦友を失った。
そんな百戦錬磨の本田も原爆の惨状に腰を抜かした。
「地獄とはこういうものか…」
剣部隊司令で海軍大佐の源田実(後の航空幕僚長、参院議員)は本田にこう語った。
「もし今度、新型爆弾に対する情報が入ったら俺が体当たりしてでも阻止する。その時は一緒に出撃してくれるか」
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