【社会】幻の爆撃機「富嶽」、旅客機タイプ模型が初飛行 中島飛行機ゆかりの群馬・太田で元エンジニアらが製作 [05/15]at NEWSPLUS
【社会】幻の爆撃機「富嶽」、旅客機タイプ模型が初飛行 中島飛行機ゆかりの群馬・太田で元エンジニアらが製作 [05/15] - 暇つぶし2ch1:ちゅら猫φ ★
16/05/15 20:53:32.09
2016.5.15 16:22
★幻の爆撃機「富嶽」、旅客機タイプ模型が初飛行 中島飛行機ゆかりの群馬・太田で元エンジニアらが製作

先の大戦で名機「隼」や「疾風」を製造、米軍の空襲目標にもなった当時、世界有数の航空機メーカー、
中島飛行機が米国爆撃を想定して構想しながら敗戦で日の目をみなかった幻の爆撃機「富嶽」。
B29の2倍という当時、破格のスケールの爆撃機を起源とした旅客機タイプの大型ラジコン模型が15日、
中島飛行機ゆかりの群馬県太田市の尾島RCスカイポートに見参、愛好家らが見守る中、ダイナミックな飛行を披露した。

中島飛行機は、1917(大正6)年から1945(昭和20)年まで存在した日本の航空機・航空エンジンメーカー。
エンジンや機体の開発を独自に行い、自社での一貫生産を可能とする高い技術力を備え、大戦終結までは東洋最大、
世界有数の航空機メーカーとされた。創業者は中島知久平(1884~1949年)。戦後、GHQにより解体され、
自動車部門として現在の富士重工業が伝統を引き継いでいる。

「富嶽」は、中島知久平が大戦中に米軍のB29の2倍の大きさの爆撃機を構想し、大戦末期6発の大型爆弾を搭載、
米国本土の直接爆撃を目的とした爆撃機。極秘に設計が進められたが戦局悪化で製造されなかった。
爆撃機とともに旅客機、輸送機の3種類あり、設計図が残されていた。これをもとに地元に残る元エンジニアらが結成した
「富嶽を飛ばそう会」(正田雅造会長)がラジコンを製作し、地元の大空で飛行させてきた。

この日、飛んだのは旅客機タイプで、大きさは実物の12分の1。木製の手作りで全長2・8メートル、全幅4・12メートル、
重量は19キロでエンジン6基を搭載、平成23年に製作した。旅客機は爆撃機より一回り小さいという。

五月晴れのラジコン日和となったこの日、県内をはじめ東京や千葉、神奈川などからラジコン愛好家が参加、
富嶽の“前座”として飛行したのは、「エアロスバルFA-200」や「雷電」、「零式戦闘機52型」など約20機。
各機とも華麗な飛行を見せたが、中には機体のトラブルなどから滑走路脇の草むらに墜落、大破し愛機を失う場面も。

メーンの富嶽は、午前と午後の2回、ダイナミックな姿を披露した。

1回目の飛行では、着陸の際にラダー(方向舵)の制御がきかず、滑走路脇の草むらに突っ込み、観客をヒヤリとさせたが、
機体には影響なく2回目に臨み、見事な飛行と着陸を見せ、観客を沸かせた。

同会では設計図をもとに平成11年、まず爆撃機タイプを製作。第1号となる15分の1サイズでエンジン6基搭載の
木製で全長3メートル、全幅4・33メートルだった。旅客機タイプは爆撃機に次ぐもので、主催した「富嶽を飛ばそう会」
の正田雅造会長(67)は「中島飛行機というと、戦争に加担したという暗いイメージがある。
飛行機の本来の目的は物を運ぶものというのが中島知久平の考え方」。知久平が軍需だけではなく、
民間機にも目を向けていた事実をアピールした。

会場を訪れた太田市の清水聖義市長は「楽しみにしていた。機体がきれいで、今の世の中に出しても全くおかしくない。
平時になったときに売り出す気持ちがあったのでは」と語った。

楽しげに空を見上げていた太田市の僧侶、小暮英順さん(71)は「5、6年前から見に来たかったが、なかなか来られず、
今回が初めて。10代のころにラジコン模型を作っていたが、失敗ばかりしていた。迫力ある飛行に青春時代の思い出が
よみがえる」と、数々の名機の飛行にみとれていた。

同会では爆撃機、旅客機タイプに次ぐ輸送機タイプを現在、製作中で、11月に完成する予定。
正田会長は「来年か再来年には3機の編隊飛行を実現したい」と力強く語った。

URLリンク(www.sankei.com)

迫力満点の飛行を披露した巨大ラジコン飛行機「富嶽」の旅客機型。12分の1とはいえ、全幅4.12mの特大スケールモデルだ
=15日、群馬県太田市の尾島RCスカイポート(尾崎修二撮影)
URLリンク(www.sankei.com)


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