16/04/08 22:32:29.40
★住民国籍10ヵ国以上! 難民と共に暮らすことを選んだ日本の「超・多国籍団地」を訪ねて
■住民同士で「傷害沙汰」
外国籍の児童の大半は、小学校のすぐ近くにある、「県営住宅いちょう団地」に住んでいる。
この団地は、1971年に横浜市泉区と大和市にまたがり建設された。現在84棟あるうちの入居者の4分の1が外国籍だという。
なぜいちょう団地には、外国籍の人が多く暮らしているのだろうか。
それはかつてこの近くに、「インドシナ難民」を支援するために設立された「大和定住促進センター」があったからだ。
1975年、ベトナム、ラオス、カンボジアが社会主義政権に移行した際に、思想的に迫害を受ける恐れのある人などが、
難民として国外に脱出。彼らはインドシナ難民と呼ばれ、日本にも膨大な数が押し寄せた。
そこで1979年、日本政府は本格的な難民の受け入れと支援を開始。大和市に定住促進センターを設立し、日本語や文化、習慣などを学ばせた。
そしてセンターでのプログラムを終えた後は、近くのいちょう団地に入居し、自動車工場に勤める。これが落ち着き先のパターンとして定着したのだ。
90年代に入ると、外国人の住民が家族や友人を呼び寄せ、その数はさらに増えていった。
現在、約2200世帯のうちの約500世帯が外国籍で、10ヵ国以上の国籍の人が共に暮らしているという。
こうした外国人の住民を支えてきたのが、いちょう団地の連合自治会だ。
元いちょう団地連合自治会会長の栗原正行(72)によれば、インドシナ難民が住みはじめた当初は、
人数もそれほど多くはなく、なおかつ定住促進センターで日本に関する知識を得てから入居するため、大きなトラブルはなかったという。
だが、90年代に外国人居住者の数が増えてからは、問題が頻発するようになった。
たとえば、当時の外国人の家庭では、服飾の内職をしているところが多かった。工業用のミシンを部屋に持ち込んで夜通し働くので、
作業音が隣近所に響く。そのため高齢者や子供がいる世帯からクレームが続出した。
また、独特の香辛料の匂いが部屋の外にまで立ち込めて、「臭くて通路を通れない」という苦情も多かった。
無断駐車や夜間のカラオケによる騒音もひどく、これらが原因で住民同士のケンカが絶えなかったという。
「植木鉢とか宅配のすし桶とかを武器にしてね。大変だったよ」と栗原は当時を振り返る。
ついには、不法滞在や麻薬、外国籍の未成年の住人による連続盗難事件など、犯罪行為までが発生。
さすがにこれは放っておけないと、連合自治会は総出で問題に取り組むようになる。
まずは外国人たちの悩みや疑問を解決しようと、「住民相談」を月1回のペースで開始。通訳はもちろんのこと、
ときには弁護士も呼んで法律的な相談にものった。
この取り組みはいまでも継続している。
URLリンク(courrier.jp)