【朝鮮人強制連行問題】ペさん「戦後は帰国するはずだったが、船賃を工面できず、間もなく朝鮮戦争が始まり、機会を失った」 [02/22]at NEWSPLUS
【朝鮮人強制連行問題】ペさん「戦後は帰国するはずだったが、船賃を工面できず、間もなく朝鮮戦争が始まり、機会を失った」 [02/22] - 暇つぶし2ch1:◆CHURa/Os2M@ちゅら猫φ ★
16/02/22 20:12:20.52
★〓東録さん(72)=八幡西区 在日の歴史伝える語り部 /福岡
毎日新聞2016年2月21日 地方版
平和の種をまき続け

「ペさんだよ。日本語上手やろ。なんでしゃべれるかわかる? 日本で生まれたからだよ」。
在日コリアン2世の語り部として、県内の小中高校などで1994年から朝鮮半島の文化や
在日の歴史を伝え続けている。年間50?60回の講演をこなし、19日にあった大牟田市の
小学校で1000回を達成。児童らを前に、万感の思いをこめていつものように語りかけた。

「戦争したらため(駄目)よ。朝鮮人も日本人もみんな同じ人間だから、けんかせんでなかよん
(仲良く)せえよ」。1世として辛酸をなめ、2004年に93歳で亡くなるまで同じ語り部
として一緒に学校を回ったオモニ(母)が、たどたどしい日本語で訴えていた言葉だ。

日本へ連れて来られ八幡製鉄の下請けで働いていた父と、父を追って海を渡り、やがて日雇い
労働者として重い鉄鉱石を運ぶ仕事をするようになった母、子供7人の家族で、八幡の長屋に
暮らした。戦後は帰国するはずだったが、解雇された両親は船賃を工面できず、間もなく
朝鮮戦争が始まり、機会を失った。

日本の小中学校から九州朝鮮中高級学校を経て、朝鮮大学校に進んだ〓さんだが、卒業後は
会社員、塗装業、古鉄回収業の職を経験。自分と無縁ではない在日朝鮮人の強制連行問題に
関心を持つようになった。大牟田市の朝鮮人収容所跡の保存に取り組み、そこで知り合った
教諭らに「在日の思いを教えてほしい」と研修会や学校に呼ばれたのが語り部の始まりだ。

90分の内容には、遊びと学びの要素を織り交ぜる。チマ・チョゴリを着せる異文化体験。
祖先の故郷や生い立ちを語り、在日が受けてきた厳しい差別を考えてもらう人権教育。
「私自身は日本で生まれ、周りはいい日本人ばかり。怒りを持続するのは難しいし、
昔のことを恨みがましく言っても仕方ないという気持ちはある。でも、語り継がなければ
歴史の事実が変えられる」。故郷を思い、身の上を嘆き続けた母の姿が今も心にある。

送るメッセージは「差別しない」「認め合う」「平和を大事にする」の三つ。贈られた感想文
や手紙は、段ボール6箱分になった。「平和の種をまいてきたと自負している。語り部は自分の使命。
体はボロボロだけど、続けられる限り頑張るよ」。細い体を奮い立たせている。【長谷川容子】

〔北九州版〕
URLリンク(mainichi.jp)


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