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★【戦後70年~東京裁判とGHQ(3)】ダグラス・マッカーサーの嘘と虚栄 「天皇に代わる存在」になるべく演出したが…
2015.12.22 11:30
連合国軍最高司令官(SCAP)、ダグラス・マッカーサー(米陸軍元帥)は占領下の日本で
5年8カ月にわたり最高権力者として君臨した。マッカーサーは回顧録にこう記している。
「私は日本国民に対して事実上無制限の権力を持っていた。歴史上いかなる植民地総督も
征服者も総司令官も私ほどの権力を持ったことはない。私の権力は至上だった…」
マッカーサーは判で押したような生活を送った。毎朝10時すぎに宿所の赤坂・米大使館から
連合国軍総司令部(GHQ)本部が入る日比谷の第一生命館まで通った。
午後2時ごろまでオフィスで執務した後、大使館に戻って昼食と昼寝。
午後4時すぎにオフィスに再び戻り、午後8時すぎに帰宅した。
第一生命館前には大勢の日本人が好奇の眼差しで待ち構えていた。
マッカーサーは一瞥(いちべつ)もせずにゆっくりとした足取りで玄関に向かった。
これが、新たな統治者が誰かを印象づけるための演出だった。
マッカーサーの姿を見た日本人は「回れ右」してお堀越しの皇居に一礼して帰っていった。
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月日を経ても群衆の数は一向に減らなかったが、皇居に拝礼する人は次第に減り、
半年後にはわずか数人になった。マッカーサーはいつしか「堀端(ほりばた)天皇」と呼ばれるようになった。
語学将校としてGHQに勤務し、この日本人の変化を興味深く観察していたアル・ゼルバー(95)はこう振り返った。
「戦前の天皇は人々の前に姿を現すことがなく、日本人にとって遠い存在だったが、
マッカーサーは権威者としての役割をうまく演じ、アメリカン・アイドル(偶像)として天皇の権威に置き換わったのだ」
× × ×
マッカーサーが、愛機のC54輸送機「バターン号」で神奈川・厚木飛行場に降り立ったのは昭和20(1945)年
8月30日の午後2時すぎ。トレードマークのコーンパイプにサングラス姿でタラップを降りたマッカーサーは出迎えの将校にこう語った。
「メルボルンから東京まで遠い道だったが、どうやらたどり着いたようだな。映画でいう『結末』だよ」
マッカーサー家はスコットランド貴族の血を引く名家で、父のアーサー・マッカーサーJr.は南北戦争の英雄でフィリピン初代軍政総督だった。
マッカーサーは陸軍士官学校を首席で卒業し、1930(昭和5)年に陸軍最年少の50歳で参謀総長に昇進。
フィリピン軍事顧問を経て、41(同16)年にマニラ駐屯の極東陸軍司令官となった。
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この輝かしい軍歴に傷をつけたのが日本軍だった。
1941(昭和16)年12月8日の日米開戦直後、日本軍はルソン島に猛攻をかけた。
マッカーサー率いる米軍は反撃らしい反撃もできずにマニラを捨てバターン半島とコレヒドール島に敗走した。
マッカーサーは翌42(同17)年3月11日、「アイ・シャル・リターン」と言い残して家族や側近とともに魚雷艇で脱出、
ミンダナオ島の秘密飛行場からB17でオーストラリアに逃れた。
部下を見捨てての敗走にすぎないが、米紙は、米軍の勇敢な戦いを連日掲載して「英雄的抵抗」と称賛、
マッカーサーに感謝の念を決議する州もあった。
だが、この「神話」はマッカーサーの創作だった。嘘と誇張にまみれた戦闘報告を自ら執筆し、140回も新聞発表した。
若いころに陸軍新聞検閲官として学んだ宣伝のノウハウが役立ったのだ。それだけにフィリピンでの屈辱だけは晴らさねばならなかった。
44(同19)年7月、サイパンが陥落し、日本の敗戦は決定的となった。
第32代大統領のフランクリン・ルーズベルトは、米太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツにマッカーサーの兵力を吸収させ、
フィリピンを素通りして台湾、沖縄を攻略する方針だったが、マッカーサーが猛烈な巻き返しに出た。
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