【戦後70年~東京裁判とGHQ(1)】火葬場から盗み出された7人の遺灰は… 広田弘毅は無理な罪状にも「自ら計らわず」 [12/20]at NEWSPLUS
【戦後70年~東京裁判とGHQ(1)】火葬場から盗み出された7人の遺灰は… 広田弘毅は無理な罪状にも「自ら計らわず」 [12/20] - 暇つぶし2ch1:◆CHURa/Os2M@ちゅら猫φ ★
15/12/20 17:46:30.81
★【戦後70年~東京裁判とGHQ(1)】火葬場から盗み出された7人の遺灰は… 広田弘毅は無理な罪状にも「自ら計らわず」
2015.12.20 10:19

昭和23年12月26日未明、横浜市西区の久保山火葬場(現久保山斎場)の共同骨捨場に、
黒いマントに身を包んだ男3人が闇にまぎれて忍び込んだ。3人は先端に空き缶を付けた竹ざおを
コンクリート床の穴に入れ、中にたまった骨灰を慎重にすくい上げた。寒さと緊張で手の震えが止まらない。
なんとか一握りほどの骨灰と細かな骨を集め、骨壺に収めると、男たちは無言でうなずき合い、その場を立ち去った。

骨壺は近くの寺で厳重に保管された後、翌24年5月3日に伊豆山(静岡県熱海市)中腹の寺院「礼拝山興亜観音」に持ち込まれた。

遺灰は、東京裁判(極東国際軍事裁判)で死刑を宣告され、A級戦犯として絞首刑となった元首相、
東條英機(陸軍大将)ら7人のものだった。

7人の刑は、戦犯収容所の東京・巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)の一角で23年12月23日午前0時すぎ、
ひっそりと執行された。この日は明仁皇太子(天皇陛下)満15歳の誕生日だった。

連合国軍総司令部(GHQ)は刑執行後、久保山火葬場に遺体を運び込み、厳重警戒の中で焼却した。
遺族は遺灰の引き取りを願ったが、GHQはにべもなく断った。神聖化され、軍国主義復活に利用されることを恐れたのだ。
遺骨は米兵によって鉄の棒で粉々に砕かれ、東京湾に捨てられたとされる。

遺族たちの無念を聞き、東京裁判で元首相の小磯国昭の代理人を務めた弁護士の三文字正平が奮い立った。
久保山火葬場で火葬されるという情報を得ると、旧知の住職とともに火葬場長に遺灰奪回計画を持ちかけた。

URLリンク(www.sankei.com)

火葬場長は、米兵がわずかな骨片や遺灰は掃き集めてコンクリ穴に捨てたのを見逃さなかった。
クリスマスの夜ならば警備も手薄になるに違いない。こうして3人は首尾よく遺灰を取り戻したのだった。

最終的に遺灰を持ち込んだ興亜観音は、東京裁判で南京事件の責任を問われ処刑された元中支那方面軍司令官、
松井石根(陸軍大将)が日中戦没将兵の慰霊に建立した寺だった。松井は巣鴨への出頭直前に密かに興亜観音を訪ね、
「どうか英霊の供養を頼む」と住職の伊丹忍礼の手を握った。

それだけに興亜観音は絶好の安置場所だったが、油断はできない。
三文字は骨壺を持ち込んだ際、「これはお知り合いのご遺灰です。時機が来るまで誰にも分からぬよう秘蔵していただきたい」
と頭を下げた。誰の遺灰かピンときた伊丹は快諾し、本堂の床下や礼拝堂など隠し場所を頻繁に変えて遺灰を守り続けた。
作業は真夜中に行い、家族にも秘密だった。伊丹の三女で現住職の妙浄(63)はこう打ち明けた。

「父はご遺灰については何も語りませんでしたが、『兵隊さんのご苦労を思えば何の苦労もない。
ご英霊のご丹精があったからこそ今日の日本がある』というのが口癖でした。英霊はA級もB級もなく供養するのが
当たり前だと考えていたのでしょう」

× × ×

A級戦犯として処刑された7人の中で元首相、広田弘毅は外交官出身で唯一の文官だった。

URLリンク(www.sankei.com)

23年11月12日の死刑宣告から2週間余り経った11月29日、広田の家族は最後の別れを告げに巣鴨プリズンを訪ねた。

10歳だった孫の弘太郎(77)は面会室の一角でガラス越しに祖父と向き合った。物心ついて祖父に会うのは初めて。
面会前に父、弘雄に「お前がおじいさんに会えるのは今日が最後だ。なるべく覚えておくように」と言われたので必死に
目を凝らしていると、広田は優しくほほ笑みながらこう言った。

「ちゃんと勉強して、しっかり暮らしなさい」

緊張のあまり顔はうろ覚えだが、広田の落ち着き払った物腰は覚えている。他の家族にも、判決への不満や、
遺言めいた言葉は一切なく「これからの世の中は外国語の勉強はしておいた方がいいな」などと何気ない団欒を続けた。

広田は一体何の罪に問われたのか。 (以下リンク先で読んでください)

URLリンク(www.sankei.com)


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