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★【大阪の中のアジア】ジャパンマネーを夢見て来日するも現実は…フィリピン人親子の無理心中をきっかけに誕生した自助組織
2015.11.29 09:00
日曜日の教室に哀愁を帯びたメロディーが流れている。曲名は、タガログ語で子供を意味する
「ANAK(アナク)」。フィリピンで作曲され、70年代に日本でもカバー曲が大ヒットした「息子よ」だ。
大阪市中央区の市立南小学校で11月上旬に開かれた日本人とフィリピン人の交流会。
同小学校は、児童約200人のうち約2割がフィリピン国籍の親を持つといい、
言葉の壁などで悩む児童もいる。そんなフィリピン人たちを支援するのが自助組織
「サウスイーストアジアコミュニティ協会」だ。
発起人の一人でフィリピン人の平松マリアさん(45)は「中央区にはフィリピン国籍者が
約500人暮らしていますが、仕事が夜間だったり、日本語が不自由だったりして地域住民
との交流は希薄になりがち。孤立するケースもあり、助け合う仕組みが必要だった」と語る。
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マリアさんには忘れられない事件がある。平成24年、大阪・ミナミでフィリピン人の母親
(当時29歳)が長男(同6歳)と長女(同4歳)を道連れにした無理心中だった。
マリアさんは、事件前にこの女性から「日本の生活がしんどい」と相談を受けていた。
外国籍の住民を支援する「NPO法人チャーム」(大阪市北区)に所属するマリアさんは、
大阪市内の託児所で開いた相談会で彼女と出会い、電話番号を伝えていた。
「結局、連絡はありませんでした。夜の仕事をしながら小さな子供を育て、祖国の親元にも
仕送りしないといけないと頑張っていた。心身とも疲れたのかもしれません」
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訪日フィリピン人が増え始めたのは、バブル景気にわく昭和60年代以降。「興行」という
在留資格を取得し、フィリピンパブなどで働くダンサーらが入国。多いときで年間約8万人の
フィリピン人が興行ビザで来日していた。
マリアさんも平成元(1989)年にダンサーとして日本へ来た。
「帰ってきた人たちが次々と立派な家を建てるのを見て、日本への憧れと夢を膨らませました」。
だが現実は6畳の部屋に4人で住まわされ、1カ月の給料は搾取されて300ドル(当時約4万円)だった。
その後、日本人男性と結婚し2人の子供に恵まれたが、夫の暴力が原因で離婚した。
「自分の経験を生かしたい」と、日本語の勉強会などを主宰するかたわら
、「サウスイーストアジアコミュニティ協会」のスタッフとしても奔走している。
「本当につらい思いをしている人はなかなかコミュニティーに出てこない。自分一人で悩みを
抱え込まないでほしい」とマリアさん。そんな思いが仲間たちを勇気づけている。(上岡由美)
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