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★【戦後70年】非武装船舶「住吉丸」に米軍は容赦ない機銃掃射…終戦直前に起きた悲劇「命ある限り伝える」
2015.10.1 05:00
第二次世界大戦終結直前の昭和20年8月2日、海軍予科練生を乗せた船舶「住吉丸」が、
鳴門海峡で米軍機の機銃掃射に遭い、82人が死亡する惨事があった。犠牲者の大半にあたる
76人は、全国各地から集まった予科練生で10代の若者だった。あの日から70年がたった
節目に、多くの死傷者が運び込まれた春日寺(兵庫県南あわじ市)では法要が営まれた。
生還者や遺族らは当時の惨劇を今でも生々しく覚えており、「この話を後世に伝えたい」
と犠牲者の墓前に新たな決意を語った。(藤崎真生)
■三洋電機創業者らの尽力で建立された墓碑
悲劇の舞台となった鳴門海峡を見下ろす淡路島の小高い丘の上。そこに犠牲になった82人の
墓碑が並び、「慈母観音像」が温かく見守っていた。墓碑は昭和40年、淡路島出身で
三洋電機(現・パナソニック)創業者の故・井植歳男氏らの尽力で建てられ、その2年後の
42年に観音像が建立された。生還者や遺族らは45年に「慈母観音会」を立ち上げ、
毎年8月2日に春日寺などで法要を営んでいる。
「兄は…無念だったと思う」
当時14歳だった兄、謙吉さんを失った社会福祉法人理事長、大矢寛治さん(81)=大阪府豊中市=は、
ひざの高さほどの墓碑に手を合わせた。それぞれの墓碑に犠牲者の遺骨が埋葬されているが、
一時は複数の大きな穴に仮埋葬されていたこともあったという。
元民放テレビ局記者の大矢さんは当時、「慰霊の地」ができる過程を取材していた。
「兄は水泳が得意で優しい人でした。悲劇を二度と繰り返さないよう、82人が亡くなった事実が不戦、
平和のために役立ってほしい」と訴える。
かつては多くの観光客らが訪れていたが、最近では淡路島と四国を結ぶ大鳴門橋の開通などで次第に
足を運ぶ人は減っているという。春日寺の瀬尾泰澄住職(34)は「住吉丸の話は風化させてはいけない。
若い方々は、国のために散ったんです」と話す。
■甲板から戦友たちが降ってきた
「慈母観音会」代表代行の大島正純さん(84)=兵庫県西宮市=は、あの日の惨劇を生々しく覚えている。
米軍の侵攻を想定して淡路島南西部に砲台を造るため、「宝塚海軍航空隊甲種飛行予科練習生」ら
111人が乗った「住吉丸」は昭和20年8月2日早朝、徳島・撫養(むや)から淡路島の阿那賀
(現・南あわじ市)へと出港した。住吉丸はエンジンと帆を備えただけの木造船で、
「確か35トンだったと思う」(大島さん)。予科練生の多くは船体前部に板を渡しただけの“甲板”の下にいた。
「敵襲ー!!」
淡路島を目前にした鳴門海峡で、甲板の上から大声が聞こえた。だが、船内には武器になるようなものは一つもない。
米軍艦載機の爆音が聞こえたかと思えば、バリバリバリッという容赦ない機銃の音が響いた。
甲板はアッという間に壊され、真上から変わり果てた姿になった戦友や上官たちが降ってきた。弾丸は船体を貫通し、
船底からは海水が噴き出した。「飛行機は3回旋回してきた。最後の攻撃のときに撃たれました」。
うずくまっている大島さんの後方から、弾丸が右の耳の上あたりをかすめて頭の骨を砕いた。
気絶した大島さんが意識を取り戻すと、地獄絵図が目の前で繰り広げられていた。あたりを埋め尽くす戦友たちの遺体。
船のエンジンは炎上していた。海水をかけて消火にあたる戦友もいれば、海へ飛び込んで逃げる仲間もいた。
大島さんは再び意識を失い、西宮市の病院へ運ばれて終戦を迎えたという。 >>2へ続く
URLリンク(www.sankei.com)
「住吉丸」で犠牲になった82人の墓碑と「慈母観音像」。大半にあたる67人が10代の若者だった=兵庫県南あわじ市阿那賀
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