15/09/21 23:51:01.69
【安保改定の真実(5)】ソ連の「中立化」工作が奏功 朝日新聞幹部は「闇の司祭」と兄弟分だった…
2015.9.20 15:00
「中立化」こそがソ連の対日工作のキーワードだった。露骨に社会主義圏に入るべき
だとは言わず「中立化」という言葉を用いた効果は絶大だった。
学者・文化人の多くがまだ社会主義への幻想を抱いていた時代。終戦から15年しか
経っておらず、国民の反米感情が強かった。安保条約改定に対して「米国の戦争に
巻き込まれる」という宣伝は次第に効果を上げていった。
だが、ソ連が恫喝を強めれば強めるほど、岸は対米関係強化に突き進んだ。
昭和35(1960)年1月19日、岸は、病に倒れたジョン・ダレスに代わり国務長官
となったクリスチャン・ハーターと新安保条約に調印した。アイクとの会談後は共同声明で
「新安保条約が極東の平和と安全を大いに強化し、全世界の平和と自由を増進すると確信
している」とうたった。
ソ連は怒り狂った。同年4月に漁業交渉のため訪ソした農相の福田赳夫(後の第67代首相)は、
最高指導者で首相のニキータ・フルシチョフと会談した。
フルシチョフは鳩山政権時代を懐かしみ「日本はいま安保で騒いでいるが、岸が悪い。
鳩山だったらあんなにソ連に挑戦的なことはしないだろう」と論難した。福田が反論すると、
フルシチョフは小声で「キシ、キシ」と呟いた。ロシア語で「キシ」は「腐る」の意。
こんな子供じみた悪態をつくほど岸は目障りな存在だった。
ソ連が反発を強めるにつれ、朝日新聞を中心に多くのメディアは安保改定への批判一色と
なっていった。「日本は中立化すべき」「安保改定すれば米国の戦争に巻き込まれる」-。
スローガンまでもなぜかソ連の主張とそっくりだった。
そもそもメディアは安保改定には無関心だった。
「日米安保条約を改定/近く米側と交渉/藤山外相 具体案の作成指示/片務性を解消へ」
産経新聞朝刊1面をこのスクープが飾ったのは昭和33年7月1日だった。記事を書いたのは
産経新聞政治部記者の松平吉弘(86)。記事では、旧安保条約の問題点を指摘し、国民が
米軍駐留のメリットを享受できるよう片務性を解消する方向で改定する方向だと報じた。
同時に外相の藤山愛一郎が渡米し、米側と正式協議に入る見通しだと伝えた。
岸は昭和32年2月の首相就任直後から駐日米大使のダグラス・マッカーサー2世と水面下の
交渉を始めたことを考えると決して早いとは言えないが、各紙はこのニュースを黙殺した。
7月3日の参院外務委員会で社会党の羽生三七は産経新聞を片手に記事の真偽を質した。
藤山は「忌憚なく私が考えているところを米側に率直に言ってみる」と事実関係を大筋で
認めたが、各紙はこの答弁を小さく報じただけだった。
記事通り、藤山は昭和33年9月11日、ワシントンでダレスと会談し、安保条約改定の
交渉入りを合意した。各紙が安保条約改定について大きく報じ始めたのは、この前後からだった。
1950年代後半から80年代にわたり、ソ連の対日工作の責任者は、
ソ連共産党中央委員会国際部副部長などを務めたイワン・コワレンコだった。
「闇の司祭」の異名を持つコワレンコはソ連崩壊後、ジャーナリストの加藤昭の取材に応じ、
加藤の監修で回顧録を残した。
コワレンコは、「灰色の枢機卿」と呼ばれたソ連共産党イデオロギー担当書記のミハイル
・スースロフの意向を受け、「日本の中立化」を目指す民主統一戦線を作るべく政界や労働界を
奔走したことを回顧録に赤裸々に綴った。安保闘争についても「日本の民主勢力にかなり
大きな援助を与えた」と明かしている。
ソ連と日本共産党はギクシャクした関係が続いたため、コワレンコが選んだ新たなパートナーは
社会党だった。回顧録でも鈴木茂三郎、浅沼稲次郎、勝間田清一、石橋政嗣、土井たか子ら
歴代委員長を「ともに仕事をして実り多かった愛すべき闘志たち」と絶賛している。
日ソ友好議員連盟などを通じて元労働相の石田博英ら自民党議員にも接触を続けたという。
>>2へ続く
URLリンク(www.sankei.com)