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★【満州文化物語(6)】“反日プロパガンダ”に使われる「平頂山事件」の真実 語られぬ抗日ゲリラの撫順炭鉱襲撃
2015.9.13 12:00
■満鉄が作った未来都市
「世界一の露天掘り」と謳(うた)われた撫順(ぶじゅん)炭鉱(礦)は、日露戦争
(1904~05年)の勝利で採掘権を得た日本によって本格的な開発が始まった。
良質の撫順炭の埋蔵量は約10億トン、ピーク時(昭和12年)の年間出炭量は
約1000万トン。頁岩(けつがん)油(オイルシェール)、人造石油、金属、
セメントなども生産する一大化学コンビナートであり、経営する満鉄(南満州鉄道)
にとって鉄道事業と並ぶ収益の2本柱だった。
満鉄はこの地に、当時の内地(日本)から見れば“夢のような未来都市”を築いてゆく。
都市計画で整備された市街地には広い幹線道路が通り、学校、病院、公園、公会堂、
野球場、プール、冬はスケート場ができた。
社宅街は瀟洒(しょうしゃ)なレンガ造り。炊事はガス、トイレは水洗でタイル張り、
電話はダイヤル式の自動電話。特筆すべきなのは画期的なスチーム(蒸気)による
「地域暖房」だ。ボイラーから各戸にパイプを張り巡らし、外気が零下10度、20度
にもなる真冬でも室内はポカポカ。熱い風呂はいつでも使用可能…。東京や大阪の
大都会でもこうした生活が一般化するのは、高度成長期以降のことだろう。
まだ初期の1909(明治42)年に渡満した夏目漱石が『満韓ところどころ』に
撫順の街を見た驚きを書き留めている。《洒落(しゃれ)た家がほとんど一軒ごとに
趣(おもむき)を異(こと)にして十軒十色とも云(い)うべき風に変化しているには驚いた。
その中には教会がある、劇場がある、病院がある、学校がある。坑員(こういん)の
邸宅は無論あったが、いずれも東京の山の手へでも持って来(き)て眺めたいものばかり…》
URLリンク(www.sankei.com)
■汚名だけ着せられて
この近代的な炭都が抗日ゲリラの「標的」となった。今から83年前の昭和7(1932)年
9月15日夜から16日未明にかけて未曾有(みぞう)の大事件が起きた。その6カ月前に
建国された満州国を日本国が承認した日に合わせて「反満抗日」を叫ぶゲリラ、匪賊らの
大軍が撫順炭鉱を襲撃、施設に火を放ち、日本人5人が惨殺された。
いわゆる「楊柏堡(ヤンパイプ)事件」である。
殺されたのは同炭鉱楊柏堡採炭所長ら炭鉱職員4人と家族の女性1人の民間人ばかり。
炭鉱施設や社宅街も大きな被害を受け、一部採炭所は操業停止に追い込まれた。
撫順を守る関東軍の独立守備隊は翌16日、反撃に出る。抗日ゲリラに通じていた、
とされる平頂山集落の住民らを殺害した。これがいまなお“反日プロパガンダ”に
使われ続ける「平頂山事件」である。
戦後、平頂山事件を“悪名高い事件”として一般の日本人に知らしめたのは1970年代
初めに朝日新聞の本多勝一記者が書いたルポであろう。中国は現場に記念館を作って
日本軍の“残虐ぶり”を訴え、生き残りである住民は、日本政府を相手取った
賠償請求訴訟を起こした。
だが、虚実取り混ぜて仰々しく喧伝(けんでん)されてきた平頂山事件に比べて、
きっかけになった抗日ゲリラ部隊による撫順炭鉱襲撃、日本人殺害事件(楊柏堡事件)
についてはほとんど語られたことがない。
これでは公平さを著しく欠くだけでなく、平頂山事件の全容をつかむこともできない。
特に先に襲撃を受けた「楊柏堡事件」の被害者や家族にとっては平頂山事件の汚名だけを
着せられたまま釈明の機会さえ満足に与えられなかった。 (以下略)
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