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★毛沢東は抗日戦勝記念を祝ったことがない
中国国内の対日抗戦を戦ったのは中共軍ではなく国民党軍だった
2015年8月26日(水)18時00分
遠藤誉(東京福祉大学国際交流センター長)
中国はいま抗日戦勝記念行事で燃え上がっている。しかし中国建国の父、毛沢東は、
抗日戦争勝利記念行事を一度も行ったことがない。建国以来の推移を見れば、
習近平政権の異様さが際立ってくるだろう。
1950年代における抗日戦勝日の行動
中国(中華人民共和国)が1949年10月1日に誕生すると、その年の12月23日に
中央人民政府政務院(現在の国務院に相当)が抗日戦争勝利記念日を8月15日に
しようと決定した。しかし実際には実行されておらず、1951年に8月13日に、
記念日を「9月3日」にすると、文書上で決めた。
毛沢東はそれにも従わず、9月2日にソ連のスターリンに祝電を送ることだけしかやっていない。
中共中央文献研究室が編集し、中央文献出版社から出版した『毛沢東年譜』に基づいて、
9月2日前後に、毛沢東がどのような行動を取ったか、また抗日戦勝日記念行事を
行ったか否かを、以下に記す。
●1950年:抗日戦勝に関しては、いかなる行事も行っていない。
●1951年:9月2日に、毛沢東がソ連のスターリンに向けて祝電を送った。
内容は「抗日戦争勝利6周年に際し、中国人民解放軍と中国人民を代表して、
あなた(スターリン)とソ連武装部隊およびソ連人民に熱烈な祝賀と感謝を表する」。
これ以外のことは、何もしていない。国内行事はゼロ!
●1952年:9月2日に、毛沢東がソ連のスターリンに向けて祝電を送った。
内容は「抗日戦争勝利7周年に際し、私と中国人民解放軍および中国人民の、
あなたとソ連武装部隊およびソ連人民に熱烈な祝賀と衷心からの感謝を送ります」。
国内行事はゼロ!
●1953年:9月2日に、周恩来がソ連のマレンコフ(第二代閣僚会議議長)と
モロトフ(外相)宛てに祝電を送った。スターリンがこの年の3月に他界したから、
祝電の送り主は毛沢東ではなく周恩来に格下げした。
電文の内容は51年および52年と同じだが、そのほかに朝鮮戦争休戦協定を祝する内容と、
「朝鮮戦争における成果は、正常な関係樹立を望む日本人民の要求実現を助け、
日本が再び帝国主義侵略の道を歩まないようにすることに寄与する」という文面を含んでいる。
日本の一部の者が中国との交流を望んだことを指している。ちなみに同日、
毛沢東は習近平の父親・習仲勲らと別件で談話している。国内行事はゼロ!
●1954年:9月2日に、周恩来がソ連のマレンコフ、モロトフ宛てに祝電。
特徴はアメリカ帝国侵略集団が日本に軍国主義を復活させようとしていることを痛烈に非難。
日米安保条約に関して抗議し、協力団結を呼び掛けている。台湾解放にも触れている。国内行事はゼロ!
●1955年~59年:抗日戦勝に関しては一切触れていない。もちろん国内行事はゼロ!
このように1950年代、中ソ対立が生まれる1955年までは、ただ単にソ連に祝電(謝意)を
送っているだけである。つまり、「抗日戦争はソ連のお蔭で勝利した」という
位置づけをしていることが分かる。
1960年以降~毛沢東逝去(1976年9月9日)まで
●1960年:抗日戦勝行事は一切なし。
ただし、9月1日にメキシコ代表と対談し「日本人民は素晴らしい人民だ。第二次世界大戦では
一部の軍国主義者に騙されて侵略戦争をしただけだ。戦後はアメリカ帝国主義に侵略され、
日本にアメリカ軍の基地を作っている。アメリカ侵略国家は台湾にも軍事基地を置き、
我が国を侵略しているのは許せないことだ」という趣旨のことを語っている。
●1961年~1969年:抗日戦勝行事は一切なし。ただし1965年から、10年ごとに記念切手を出している。
●1970年~1976年:抗日戦勝行事は一切なし。
ただし、1972年9月には、日本の田中角栄元首相の訪中と日中国交正常化に関する記述に
多くのページが割かれ、日本を讃えている。
国交正常化したからと言って、突然、そのあとに対日強硬路線を取る傾向は皆無で、
日本に対して非常に友好的だ。 >>2へ続く
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