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★【戦後70年 沖縄戦の真実】軍民合わせて20万人が戦禍に倒れた 先人の尊い犠牲を断じて貶めてはならない
2015.08.22
沖縄特攻の中で、陸軍空挺(くうてい)部隊による「義烈空挺隊」も忘れてはならない。
同隊は、11、12人の空挺隊員を乗せた97式重爆撃機を敵占領下の飛行場に強行着陸させ、
飛び出した空挺隊員が地上にある敵航空機や地上施設を強襲する部隊である。
奥山道郎大尉率いる120人の義烈空挺隊員は、熊本市の健軍飛行場に集結した。
昭和20(1945)年5月24日夕、それぞれの郷里に向って遥拝した後、
12機の爆撃機に分乗して、米軍占領下の沖縄・北飛行場と中飛行場を目指して大地を蹴った。
厳しい戦局を打開し、沖縄を守るためだった。
当時の写真を見ると、奥山大尉は笑顔で機長と握手を交わし、出撃時には機上より手を振っている。
まさに威風堂々。そこには悲壮感など微塵も感じられない。
辞世の句、「吾が頭南海の島に 瞭さるも 我は微笑む 國に貢せば」そのものだった。
エンジンの不調などで4機が引き返したため、8機のみが沖縄に向かった。
米軍の激しい対空砲火で奥山大尉の乗った1番機を含む7機が撃墜されたが、
4番機だけは北飛行場に強行着陸。十数人の空挺隊員は大いに暴れまわり、
敵機を次々と破壊し、大量の航空燃料を焼失させて散華した。
熊本市の陸上自衛隊健軍駐屯地と、かつて北飛行場があった沖縄県読谷(よみたん)村、
沖縄本島最南端の摩文仁(まぶに)の丘には、義烈空挺隊員の顕彰碑と慰霊碑、鎮魂碑が建っている。
同20(45)年6月23日早朝、沖縄戦の指揮を執った第32軍司令官の牛島満中将は、
摩文仁の丘の司令部壕内で自刀に果てた(戦死後、大将に特進)。現在、この壕の上には、
第32軍司令部勤務の将兵と軍属約600人の鎮魂碑「勇魂の碑」などが建立されている。
牛島中将は、海軍の大田実少将(戦死後、中将に特進)とともに、いかにして一般の沖縄県民を
疎開させて戦禍から守るかを考えていた。だが、結果として約3万7000人の一般住民と、
さまざまな形で戦闘に参加した約5万7000人の県民が戦禍に倒れた。
このことは痛恨の極みであり、悔やんでも悔やみきれないものがある。
ただ、沖縄県民は日本軍の将兵に信頼を置いていたからこそ、軍と行動をともにしたのだろう。
そして、沖縄を守るために、祖国・日本を守るために、約6万5900人を数える他府県出身の軍人と、
約2万8000人の沖縄出身軍人・軍属が戦い、尊い命を落としたことを忘れてはならない。
軍民合わせて20万人もの戦没者を出した沖縄戦。それは凄惨を極めた、日本の悲劇である。
二度と沖縄をはじめとする日本に戦火が及んではならない。あの悲劇を繰り返してはならない。
同時に、後世に生きるわれわれは、現在の価値観では理解できなくても、先人の尊い犠牲を
断じて貶めてはならない。 (軍事ジャーナリスト・井上和彦) =おわり
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