【戦後70年】家族の借金を減らすため、横浜の遊郭で働いた後、従軍慰安婦となった城田すず子さん 敗戦後は米兵の相手も [08/14]at NEWSPLUS
【戦後70年】家族の借金を減らすため、横浜の遊郭で働いた後、従軍慰安婦となった城田すず子さん 敗戦後は米兵の相手も [08/14] - 暇つぶし2ch1:◆CHURa/Os2M@ちゅら猫φ ★
15/08/14 21:21:28.61
★戦後70年 女たちの戦争 「従軍慰安婦」を告白した城田すず子さん
2015年8月14日12時31分 記者 : 守田早生里

(中略)

城田さんは1921年6月30日、東京の下町のパン屋の5人きょうだいの長女として生を受けた。
働き者の母と優しい父。パン屋の経営も順調で、裕福な家庭で「おきゃんな下町娘だった」と
著書の中で自身を表現している。

しかし、城田さんが14歳の時、母親が子宮外妊娠による手術中に急逝。
ここから、人生の歯車が少しずつ狂い始める。働き者で、パン屋も家庭も切り盛りしていた母を亡くし、
父は悲しみから癒えるのに時間がかかり、あっという間に経営は傾いた。店を追われ、家も追われた。
お腹を空かせた弟や妹のために芸者屋をしている弁護士の家に、子守奉公に出ることになった。
城田さん、17歳の冬だった。芸者の道へ進もうと考えていた城田さんだったが、芸者屋にも
借金を作っていた父親の肩代わりをするため、体を売ることで借金を返す生活が始まった。

年頃の少女と同じように、近所の男性に恋心を寄せた時期でもあったが、汚れた体で二度と
会うことはできまいと涙をのんだ。家族の借金を減らすため、横浜の遊郭で働いた後、
台湾の戦地に「慰安婦」として渡ることに。「海軍御用」と掲げてあるその場所で、
1日10人、15人の男たちの相手をさせられた。男たちが争って娘を取り合う様を、
「獣と獣の闘いのようだった」と著している。

一時、帰国するが、再びサイパンの「慰安所」へ。戦況が悪化し、城田さんのいる島にも
米軍が猛攻を仕掛け、「ここで私の人生も終わりか・・・」と諦めかけた時期もあったが、
命からがら戦火を逃れた。そして、1945年8月15日、南国の密林の中で、敗戦の知らせを聞いた。

サイパンから引き揚げ船に乗った城田さんだったが、やっとの思いでたどり着いた母国の
人々の目は、元「慰安婦」に冷酷な視線を投げ付けた。17歳で体を売ることを覚えた
城田さんは、夜の世界で生きていくしか術がなかった。ヒロポン(薬物)も覚えた。
薬を買うために借金もした。戦後、日本に残っていた米国の進駐軍の相手をしたり、
全国の遊郭を渡り歩いたりした。

(中略)

終戦40年を迎えた頃、ベテスダ奉仕女母の家の創立者でもある深津牧師に宛てた
手紙の中で、城田さんはこう訴えた。

「兵隊さんや民間人のことは、各地で祀(まつ)られるけど、中国、東南アジア、南洋諸島で、
性の提供をさせられた娘たち、さんざん弄(もてあそ)ばれ、足手まといになると、放り出され、
荒野をさまよい、凍りつく原野で飢え、野犬や狼の餌になって土に帰っていった。
軍隊が行ったところ、どこにも慰安所があった。なんど兵隊の首をしめようと思ったか
わからない。しかし、死ねばジャングルの穴に放り込まれ、親元に知らせる術もない。
それを私は見たのです。この眼で。女の地獄を・・・。祈っていると、かつての同僚が
マザマザと浮かぶのです。どうか慰霊塔を建ててください。それを言えるのは、私だけです」

(以下略)

URLリンク(www.christiantoday.co.jp)


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