【正論】攻める側に「手痛い反撃を食うかもしれない」と思わせるに勝る抑止力はない 評論家・屋山太郎 [08/07]at NEWSPLUS
【正論】攻める側に「手痛い反撃を食うかもしれない」と思わせるに勝る抑止力はない 評論家・屋山太郎 [08/07] - 暇つぶし2ch1:◆CHURa/Os2M@ちゅら猫φ ★
15/08/07 14:29:17.16
★【正論】戦後70年に思う 安保法制論議で甦る「曲学阿世」 評論家・屋山太郎
2015.8.7 05:01

原爆の遺物を見せたり、戦火の犠牲者にインタビューして戦争の悲惨さを語らせる。
先日、テレビでコメンテーターが「この語り部たちが戦火を防ぎ、平和を永続させてくれる」
というのにはあぜんとした。

私も昭和20年5月25日、東京で大規模な空襲に遭って、妹の手を引きながら、
猛火の中を逃げ回った。両親とはぐれて一家はちりぢりとなった。明朝、焼け跡に
集まれたのは奇跡だったが、父は顔面を焼いて重傷だった。だが私は戦争を語る
ことのみや、あるいは武装しないことによって平和が保たれるとは思えない。

≪「平和と全面講和」の虚構≫

国会で憲法学者が与党推薦も含めて「集団的自衛権の行使は憲法に抵触する」と
語ったというので、安倍晋三内閣の支持率が急速に下がった。この様をみながら、
私が高校生だったころの吉田茂首相を思い出した。

当時は米軍占領下で、占領が終われば、各国と講和条約を結んで独立することになる。
吉田首相は「米国と単独講和条約を結ぶ」と表明していた。一方で「社会主義のほうがよ
い国がつくれる」との考え方も多く、学者たちは「中ソとの講和」をしたかったのだが、
それでは米国を敵視することになる。そこで米中ソなど全員との「全面講和」を主張した。

吉田首相の単独講和論に対して、学者の総代ともいえる南原繁東大総長は「『全面講和』は
国民の何人もが欲するところ。これを論ずるは政治学者の責務である」と食らいついた。
昭和25年3月の東大卒業式でも「平和と全面講和論」を説いた。

これに怒った吉田首相は「南原総長などが政治家の領域に立ちいって、かれこれいうことは、
曲学阿世の徒にほかならない」と批判した。曲学阿世とは史記に出てくる言葉で、
時代におもねる学者のことだ。

≪訓詁学に陥った一部の憲法学者≫

現在、日本は中国の脅威に直面している。中国は米国に太平洋を半分ずつ管理しようとか、
米中だけの「新型大国関係」をつくろうと言っているが、半分ずつに分けられたら日本は
どちらの側に入るのか。学者の多くが集団的自衛権行使に反対しているのは、かつての
「全面講和」論に通底しているのではないか。

吉田首相は単独講和に踏み切ったが、日本は米国の保護国のような立場だった。
これに先立って朝鮮戦争が勃発する。戦力ではないといいながらも警察予備隊を創設せざるを
得なかった。岸信介首相は保護国の地位から脱するため、日米安保条約を改定する。

しかし、創設された自衛隊は所詮、警察体系の行動原理しか与えられない。
これを安倍首相は第1次内閣で防衛庁から防衛省に昇格させ、防衛に有効な姿にする
目的で安保法制を整備しようという。

憲法に書いていなくてもどの国も自衛権を持つ。日本の場合の歯止めは9条2項の
「国の交戦権は、これを認めない」である。殴られなければ殴ってはいけない。
殴られたら防衛することはできる。その防衛のために集団的自衛権がある。
日本では長い間、集団的自衛権について「権利はあるが、行使はできない」と解釈してきた。
権利があって行使ができない“定義”はどこの国の辞書に載っているのか。

国連憲章は集団的自衛権を認めている。新安保法制は敵からの攻撃により、
「自国の存立を危うくする」なら、必要最小限の武力の行使を集団的自衛権の
下で行ってもよいとする。

一部の憲法学者たちは「訓詁(くんこ)学」をしているがごとくである。
訓詁とは漢字の意味を確かめる学問の遊びに陥って、文章をわきまえないことをいう。
>>2へ続く

URLリンク(www.sankei.com)


レスを読む
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch